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Windows Live® の検索結果 桓武天皇が平安京遷都前の784~794年(延暦3~13)の約10年間、山城国乙訓(おとくに)郡(京都府向日市、長岡京市、大山崎町)においた宮都。桓武天皇は長岡遷都によって、新しい都を建設することで天平期(729~49)以来の争乱と退廃、とりわけそれまでの平城京における寺院勢力から絶縁をはかり、新しい政治をめざそうとした。また人口増加による物資流通、水陸交通の利便さの必要など、遷都には種々の理由が考えられる。 784年(延暦3)に開始された造営は、翌年7月、諸国の農民31万4000人を動員して本格化するが、その2カ月後に造営事業の中心人物藤原種継(たねつぐ)が反対勢力によって暗殺される。大伴継人(つぐひと)ら数人が暗殺にかかわったとして死刑、天皇の異母弟の皇太子早良(さわら)親王もとらえられ淡路へ流罪となる。無実を主張する親王は淡路へ護送の途中、絶食して死亡した。 その後、786年に太政官院が完成するが、このころは一方で蝦夷(えみし)征討がおしすすめられており出費も多く、造営事業ははかどらなかった。788年には造営に役夫をだす諸国での出挙の利息が5割から3割にひきさげられるなどの施策もなされ、791年には越前など8カ国に命じ、平城宮の諸門が長岡宮へ移転された。 しかし、こうした苦難の中で推進された造営事業も数年後には放棄され、新都平安京へ移転されることになる。その原因のひとつに考えられるのは怨霊に対する恐れだった。早良親王にかわって皇太子になった桓武の子の安殿(あて)皇太子が病気になるなど、早良親王の怨霊のたたりを思わせる奇怪な事件があいついだ。くわえて長岡京は都としての立地条件がわるく、しばしば洪水にみまわれ、とくに792年には左京地域が大洪水で冠水してしまった。こうした中で天皇は793年1月に長岡京の廃止を決定、大納言の藤原小黒麻呂らを新京候補地に派遣して、造都の準備をすすめる。 1954年(昭和30)末以来の発掘調査で、現在までに大極殿をはじめとする朝堂院一帯、内裏の一部や条坊跡が確認されている。短期間の宮都だったが、全域にわたり本格的な工事がおこなわれており、平安京よりは平城京に近い町割りだったことがわかった。 2000年(平成12)には、京域の北部にあたる京都市南区と向日市森本町で古代都城としては最大といわれる離宮跡が発見された。内裏正殿規模の建物跡などが13棟あり、広さは東西が約400m、南北が約250m。すでに離宮としては東院跡と猪隈院跡(いのくまいんあと)が京内で発見されている。離宮では天皇が宴や神事をおこなった。また大極院殿の正門にあたる閤門跡(こうもんあと)や内裏外郭の西門跡(宜秋門跡:ぎしゅうもんあと)なども確認されている。
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