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Windows Live® の検索結果 1575年(天正3)5月21日三河の設楽原(したらがはら:愛知県新城市)でおこなわれた織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍の合戦。武田信玄の死後、家康は三河長篠城(新城市)を奪還したが、勝頼は前年に遠江(とおとうみ)高天神城(たかてんじんじょう。静岡県掛川市)をうばった勢いにのって、この年4月長篠城を包囲した。家康は信長に援軍を要請、信長ひきいる織田の大軍は5月14日岡崎(愛知県岡崎市)に到着した。このとき長篠城の城将奥平信昌の派遣した使者鳥居強右衛門(すねえもん)が、帰途、武田方にとらえられて磔(はりつけ)にされたが、死の間際に籠城兵に援軍の到着をさけんで知らせた話は有名である。 織田・徳川の連合軍は長篠城の西約2kmの設楽原へと進出すると、連吾川(れんごがわ)の西側に馬防柵をもうけ、多数の鉄砲を配備するいっぽう、長篠城南方にある武田方の鳶カ巣山砦(とびがすやまとりで)をうばった。これに対して武田軍も設楽原へと進出し、織田・徳川連合軍に決戦をいどんだ。兵力については諸説あるが、織田・徳川連合軍が1万5000~2万前後、武田軍が6000~1万前後だったと推定される。 武田軍は午前6時ごろから午後2時ごろまで天下無敵といわれた騎馬隊による波状攻撃をくりかえしたが、馬防柵にはばまれて敵陣に突入できず、そこへ鉄砲隊の一斉射撃をあび、壊滅的な打撃をうけて敗退した。この戦いで、武田方は信玄以来の有力部将をほとんどうしない、勝頼も身ひとつで敗走し織田・徳川・武田3氏の勢力関係は一変した。 この戦いを機に戦国期の戦闘形態は、騎馬による個人戦から鉄砲隊を組織した集団戦法へと移行していった。→ 鉄砲伝来
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