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ナルシシズムとは、自分自身を愛の対象とする心の働きで、自己愛ともいう。用語の由来はギリシャ神話にある。美少年ナルシス(ナルキッソス)はニンフエコーの求愛をすげなくしりぞけたために復讐(ふくしゅう)の神ネメシスの怒りを買い、ネメシスはナルシスが自分の美貌に強い愛着をいだくように呪(のろ)いをかける。ある日、喉(のど)がかわいて水がのみたくなったナルシスは、泉の水をのもうと水面をのぞきこんだとき、水面にうつる自分のあまりの美しさに恋し、そのまま水仙の花になってしまう。 この神話はすでに19世紀末に、自分の肉体に見ほれて性的興奮をおぼえる一種の性的倒錯としてとりあげられていたが、フロイトはそのような自体愛的なナルシシズム理解を否定し、みずからのリビドー理論との関連でナルシシズムをとらえなおし、人間の正常な発達過程にあらわれる一段階とみなした。以来、精神分析学(→ 精神分析)においてはもちろん、より広い文脈において、人の心のありようの中でも重要な意味をもつもののひとつととらえられ、議論されている。
フロイトは乳児期初期の自他未分化な段階では、なんでも自分の思うとおりになるという全能感に支配された原初的自我にすべてのリビドーが備給されると考え、これを第1次ナルシシズム(自己愛)とよんだ。やがて発達とともに自他の分化がすすみ、このリビドーのうち一部が外界の対象にむけられるようになって(対象リビドー)、対象愛が形づくられ、他方で残りの部分は自我にむけられる(自我リビドー)。この2つのリビドーは一方をふやせば一方がへるという対立関係にあるために、たとえば相手に夢中になれば(相手にたくさんのリビドーが備給されれば)、その分、自我リビドーが少なくなって、「自己」が棚上げされることになる。ここに、他人を好きになれば好きになるほど自己がみうしなわれてしまうという山あらしジレンマが生じる理由がある。 正常な場合には自我リビドーが対象リビドーに変換されたり、対象リビドーから自我リビドーをひきもどすというように、2種のリビドーの行き来が柔軟にできるが、病理的な事態になると、対象リビドーはいったん対象から自我に撤収されたあとに、ふたたび対象にもどれなくなることがある。フロイトはこれを第2次ナルシシズムとよび、ここに病理的な自己愛現象がおきる理由があると考えた。 つまり、自我リビドーが過剰になるために、自己が誇大になる妄想が生じたり、対象リビドーが枯渇するために外界への関心がうすれたり、主観的世界がくずれることが外界に投射されて世界没落体験が生まれるなど、精神病に特徴的な諸現象があらわれると考えたのである。要するにフロイトの考えでは、病理的な自己愛的現象は第2次ナルシシズムの現れであり、それはまた第1次ナルシシズムへの退行を意味していた。
このフロイトの否定的な自己愛観(わが国でも自己愛というと、自己本位として否定的にとらえる傾向がある)に対しては、いくつもの異論が生まれた。それらの多くは、自己愛には確かに病理的な面もあるが、健康な自己愛、つまり人間が積極的に生きていくうえで必要な自己愛もあるはずだという考えにたつものである。 たとえば、死を目の前にした人が、肉体はほろんでも魂は世界と一体になり、何かに生まれかわる、というような死生観をもつのは、一種の自己愛の現れだといえるが、このいわば宇宙的自己愛などは、心穏やかに死をむかえるうえでは必要なものであろう。P.フェダーンは、健康な自己愛と病的な自己愛を区別し、フロイトの考えを批判したうちのひとりである。
フェダーンはフロイトとはことなり、健康な自己愛の満足が健康な精神生活には必要であり、むしろその満足がえられないことが病理的な自己愛現象を生むと考える。この考えをうけついだエリクソンは、乳児が養育者との間に基本的信頼感をうちたて、それによって自分に自信をもてるようになるのは、健康な自己愛の始まりだとする。また、この健康な自己愛によって、養育者とのその後の良好な関係が維持、発展させられていくと考える。この延長線上に位置づけられるのがコフートの自己愛論である。
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