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日本の中国侵略政策がひきおこした1937~45年(昭和12~20年)の日本と中国との全面戦争。41年の太平洋戦争開戦後はその一部となった。中国では抗日戦争という。当時の日本では支那事変とよんだが、戦後は一時、日華事変ともいい、現在は日中戦争というのが一般的である。日本の敗北で、アジアに対する日本帝国主義の侵略に終止符がうたれ、東アジアの民族解放がすすんだ。
1937年7月7日、盧溝橋事件がおこって日中両軍が衝突。11日に停戦協定が成立したが、近衛文麿内閣は、盧溝橋事件は中国側が計画的におこしたものとして「華北派兵声明」を発した。さらに3個師団を増派し、同月末には華北に総攻撃を開始して北平(北京)、天津一帯を占領した。 これに対し、日本との和平にわずかな望みをいだいていた国民政府の蒋介石が、ついに抗戦がさけられない事態になったと表明。1937年8月の第2次上海事変をへて、日本軍は北支那方面軍を編成して中国への全面侵略にのりだし、11月に上海を占領。中支那方面軍を新たに編成して12月には南京を制圧、傀儡(かいらい)政権をつくった。南京では虐殺事件をおこして数万人とも20万人以上ともいわれる捕虜と一般人をふくむ死者をだし、国際的非難をあびた(南京事件)。
中国では抗日救国の意識が急速に高まり、国共合作がすすんだ。1937年9月には中国共産党が第2次国共合作と抗日民族統一戦線の成立を発表し、日本軍の侵略を阻止するために、各地の前線に中国共産党と国民政府による統一部隊が出動した。中国共産党の紅軍は第八路軍、新四軍として国民革命軍の一部となった。また中国共産党は農村各地に解放区を建設し、日本軍はしだいに各占領都市に孤立していった。 戦争突入後の1937年8月以降、日本政府は国民精神総動員運動を展開。38年4月には国家総動員法を成立させて、「挙国一致」の戦時統制経済を推進させた(国家総動員)。38年11月、日本政府は、日中戦争は「東亜新秩序」を形成する戦いであるとの第2次近衛声明をだし、国民政府の分裂をはかった。40年3月、南京に親日家の国民党副総裁汪兆銘を首班とする傀儡的な「国民政府」を樹立させたが、中国人の支持はえられず、蒋介石政権との和平の道もとざされ、日本政府の企図した戦争早期解決への政治工作は成功しなかった。日本軍は41年夏から盡滅(じんめつ)作戦、中国側のいうところの焼光(焼きつくす)・殺光(殺しつくす)・搶光(奪いつくす)という過酷で非人道的な三光政策をおこなったが、中国側を屈服させることはできなかった。
1941年11月、アメリカは日米交渉の中で、日本軍の「満州国」をふくむ全中国からの撤兵をもとめる「ハル・ノート(→ ハル)」を発表して履行をもとめたが、東条英機内閣はこれを拒否。12月8日、太平洋戦争に突入した。米・英軍に対抗するため、日本軍は中国を兵站基地として南進政策をすすめることとなり、ついに中国をたおすことはできず、中国人の抵抗をおさえることもできなかった。 1945年8月14日、日本政府はポツダム宣言の受諾を決定。1894年(明治27年)にはじまった日清戦争以来の中国への侵略の歴史をとじた。日中戦争による日本人戦死者は軍人約54万人、一般人約18万人にいたり、一般人をふくめた中国人戦死者は1000万人にものぼるといわれる。
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