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Windows Live® の検索結果 694~710年(持統8~和銅3)におかれた持統、文武、元明天皇3代の宮都。奈良盆地の南部で飛鳥地方の北方、畝傍(うねび)、耳成(みみなし)、香具(かぐ)の大和三山にかこまれた藤原の地につくられた。現在の奈良県橿原(かしはら)市と明日香村に位置する。日本ではじめて中国的な条坊制を採用した本格的な都城といわれ、「日本書紀」にも新益宮(しんやくのみやこ)の記述がある。 7世紀前半にはとおっていたとされる奈良盆地を縦横につらぬく古道を規準線につかい、東西を中(なか)ツ道(東京極)・下(しも)ツ道(西京極)で区画し、南北を山田道(南京極)・横大路(北京極)でかこむ。およそ東西2.1km×南北3.1kmの範囲を碁盤の目状に線引きし、東西8坊、南北12条とし、朱雀大路・六条大路・条間大路・小路などによって区分けしている。この内部に藤原宮がおかれ、宮以外の京域には政府の援助をうけた本(もと)薬師寺・大官大寺や各氏のたてた紀寺(きでら)などのほか、官司と住民のために市もひらかれた。ここには官人とその家族のほか、一般庶民・僧侶・奴隷などが居住していた。 橿原市高殿町の大宮土壇が宮の中心となる大極殿(だいごくでん)跡とされ、その南に国家的儀式がおこなわれる朝堂院(八省院)があり12棟の朝堂がならんでいた。藤原京が計画されたのは天武天皇の時代だが、実際の遷都は694年である。その後、持統・文武両天皇をへて、元明天皇の710年(和銅3)まで3代16年間首都となった。ここで701年(大宝元)大宝律令がだされており、小国ながら、中国に肩をならべる帝国であることを内外にしめした。 2001年(平成13)には、朱雀門跡(すざくもんあと)の南約250mの地点で1200点もの木簡が発見された。701~702年のものが多く、内蔵寮(くらりょう)や中務省の文字などもみえ、中務省かその関連施設の跡だったと推測された。木簡は大宝律令施行直後のもので、二官八省など律令制がととのいはじめた当時の京にあつまった人々の姿をつたえる好資料となった。
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