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Windows Live® の検索結果 1965年秋ごろからほぼ10年間にわたり、中国全土を大混乱にまきこんだ政治闘争。社会主義社会を階級闘争が継続する過渡的社会とし、資本主義に変質させようとする修正主義とつねにたたかわねばならないという毛沢東の階級闘争理論が基礎となっているが、実際には、58年に毛沢東がはじめた大躍進政策が失敗し国家主席を辞任せざるをえなかった毛沢東が、自らの復権と絶対的権威の確立をめざして開始した権力闘争だった。 最初の目標は「資本主義の道をあゆむ一握りの実権派」とされた、毛沢東にかわり国家主席となっていた劉少奇や鄧小平を打倒することにおかれ、1965年11月に発表された、「実権派」を非難する姚文元(ようぶんげん)の論文「『海瑞罷官(かいずいひかん)』を評す」が口火となった。しかし、「実権派」の根強い抵抗にあったため、毛沢東は国防相林彪とむすび、さらに中学、高校、大学の学生を紅衛兵として組織し、「造反有理」(造反には道理がある)をスローガンに「実権派」批判を展開させた。 1966年に毛沢東は、文革への中国共産党の後押しを強引にとりつけ、運動を全国規模で展開させた。紅衛兵による伝統的文化の破壊、知識人や高級官僚に対する大規模な弾圧がおこなわれ、文芸作品も、毛沢東の妻で党中央文革小組第1副組長、江青の息のかかった革命規範劇以外はゆるされなくなった。67年ごろから文革は、それまでの中心だった街頭闘争から、「実権派」の権力をうばうという奪権闘争としての性格を強めたが、「実権派」の抵抗のほか、紅衛兵同士の権力争いが発生して武力による闘争がつづき、その混乱を収拾するため人民解放軍の介入が決定された。 これは、あまりの混乱ぶりに、毛沢東、江青らの文革指導者までが収拾をのぞむようになったことのあらわれでもあった。1969年の第9回全国代表大会では、林彪が毛沢東の後継者として指名され、文革の勝利が宣言されたものの、党内における文革派同士の権力闘争はつづけられ、71年には、クーデタを画策して失敗、逃亡中に事故死したとされる、林彪事件がおきた。 文革中、中国の工業生産は20%も下落したといわれ、1971年以後党の方針は、政治思想教育重視から経済建設重視への変化を余儀なくされた。73年の第10回全国代表大会では、周恩来ら5人の脱文革派が党副主席に就任し、林彪亡きあとの文革派のリーダー、江青らのイデオロギー急進派と実務派の主導権争いが再び激化した。76年4月には天安門事件がおこり、この年1月の周恩来の死をいたむ群衆が、公然と文革派に反旗をひるがえすにいたって、毛沢東体制は根本から動揺し、毛沢東没後の10月に江青ら四人組が逮捕され、両派の争闘に決着がつけられた。80年代に文化大革命は、正式に党によって「動乱の10年」とされ、その意義を否定された。
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