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文人、士大夫などの素人が余技的にえがいた絵画のことで、職業画家の絵画と区別していう。士大夫とは儒学や文学の教養と経済的余裕をもち、官僚となって中国を統治していた階級のことであった。
盛唐の詩人で絵もよくした王維が文人画の祖とされているが、実際に文人画というジャンルが成立したのは北宋(960~1127)以後のことである。有名なものに蘇軾(そしょく)の墨竹や、楊補之(ようほし)の墨梅などがある。 元初には趙孟頫があらわれ、「書画同一」をとなえ画壇を主導した。元末にあらわれた黄公望、呉鎮、倪瓚、王蒙の四大家は、作者の個性と精神を表現する新しい山水画をえがき、文人画を革新した。 明代(1368~1644)には画院の職業画家を中心とする浙派(せっぱ)が台頭し、中期以降は蘇州の文徴明を中心とした呉派文人画が主流となった。呉派の董其昌は南宗画、つまり文人画が中国の正統絵画であると論じた。 清代(1644~1912)になると職業的な南宗画家もあらわれ、文人画も変質していった。文人画の基本は、作者個人の自由な手法でえがかれること、写実より写意を重んじること、柔軟な描線の披麻皴(ひましゅん)によって、山岳の立体感をあらわすことなどである。
日本では文人画のことを南宗画に由来する「南画」の語でよぶことが多い。日本に文人画がつたえられたのは室町時代(1333~1573)のことで、五山僧の余技としてえがかれた。著名なものに、玉畹梵芳(ぎょくえんぼんぽう)の墨蘭(ぼくらん)がある。 文人画が本格的にえがかれるようになるのは江戸時代(1600~1867)になってからで、日本には士大夫階級はなかったが、儒者や上級武士の中から文人画家が生まれた。狩野派などの従来の画風にあきたらない教養人は、明清の文人画に新鮮味をみいだしたのである。祇園南海、柳沢淇園が初期文人画の代表者であった。 文化文政期の池大雅、与謝蕪村は日本的な文人画を大成し、江戸の谷文晁は西洋画法をとりいれて文人画に新境地をひらいた。田能村竹田、浦上玉堂、桑山玉洲、渡辺崋山らは日本の各地で南画をえがき、地方に普及させた。 幕末から明治にかけて南画は形式化し、欧風文化のなかで衰退していった。しかし、明治から大正に活躍した富岡鉄斎は独特な個性で南画を復活させた。漢学や詩文の教養をそなえた文人の絵が文人画であったが、南画家にはむしろ職業的画家が多かった。文豪夏目漱石、芥川龍之介らが余技にえがいた飄逸(ひょういつ)な絵は、それゆえ本来的な意味での文人画といえる。
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