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密教の意味はさまざまな方向から理解されねばならない。たとえば最澄が密教の重要な経典である「理趣経」の注釈書の借用をもうしいれたとき、空海が「密教は実践の宗教であるから、貴僧のごとく理論だけで理解しようとされても無理である」としてことわったという話がある。その一方では、仏教、ヒンドゥー教を問わず、古くからインドに存在する諸宗教に内在する民族文化の底流(タントリズム)をふくんでいるものである。したがって、密教とは秘密仏教の略語だとか、仏教における秘教だとか、顕教に対する言葉だとか解釈してみても、いずれも一方的な見方であるとしかいいようのない文化体系なのである。 顕教との対比だけで考えると、仏には、救済すべき衆生に応じてあらわれた応身(おうじん)仏、修行の結果仏となった報身(ほうじん)仏、法そのものの具現化である法身(ほっしん)仏の三身がある中で、顕教は応身仏である釈迦仏が説いたもので、六波羅蜜の実践を説くので「波羅蜜乗」ともよばれる。それに対し、密教は法身仏である大日如来の所説であり、「金剛乗」もしくは「真言乗」とよばれる。
密教の最大の特色は、「生身のままで仏になる」という「即身成仏」をめざす点にある。げんに空海は「即身成仏」をとげたとして、高野山の奥の院にまつられていて、毎朝朝食がとどけられている。「即身成仏」の根拠としては、衆生は本来「仏性(仏になるべき種子)」をもつとされ、凡夫も三密加持(さんみつかじ)によって、容易に仏になりうるとされる点にある。三密加持とは、信者が手に印契(いんげい:指を悟りにしたがってさまざまにくみあわせる標識)をむすび(身密)、口に真言をとなえ(口密)、心に仏を憶念する(意密)ことを説き、仏の身・口・意の三密と信者の三密とが感応することである。このようにして、仏の絶対の慈悲心と信者が一体となり、現世において成仏(即身成仏)することができると説く。したがって、密教においては一般の宗教とことなって、凡夫のもつ煩悩や愛欲が否定されることはなく、むしろそれらを普遍的慈悲にまで高めることが目標とされる。 今ひとつの特色は、汎神論的仏陀観にある。これは曼荼羅とよばれる精緻をきわめた図像によって展開される教義である。その内容は、密教は大日如来を根本仏とするが、前述したように仏教だけでなく、ヒンドゥー教やその他の民間信仰の神々をとりいれてきたため、多くの仏・菩薩・明王・天などをたて、それらのすべてが大日如来の化現(けげん)であるとするものである。これらの諸仏・諸尊の曼荼羅には3種あって、諸仏・諸尊のすべてをあつめた都会(とえ)曼荼羅、仏部・天部のように1つの部だけをえがいた部会(ぶえ)曼荼羅、特定の仏だけをえがいた別尊(べっそん)曼荼羅である。どの仏・菩薩をおがんでも、究極は大日如来にいたるとされる。 ただし、三密加持でのべた煩悩肯定思想は、当時のインドのタントラ教などとむすびつき、男女の性的結合を重視するようになったとき、左道密教になり、かえって自滅の道をあゆむことになった。
伝説によれば、密教は大日如来から直接聴聞した金剛薩埵(さった)が、その教えを南インドの鉄塔の中に安置し、のち竜猛(りゅうみょう:竜樹の密教名)によってこの塔がひらかれ、教えをさずけられたものであるとされる。歴史的には、密教は大乗仏教の最終段階で成立したものであって、「華厳経」の哲学や中観(ちゅうがん)派、瑜伽行派の思想に、ヒンドゥー教の影響がくわわって成立したものである。その時期は7世紀後半であったと考えられており、同じころに「大日経」や「金剛頂経」も成立した。また、陀羅尼(だらに:教法を行者に受持させる力をもつ呪文)や印契、曼荼羅は5~6世紀ごろには成立していたと考えてよい。 しかし、その当時、密教は仏教の本流ではなく、断片的に説かれたものにすぎなかったので、雑部仏教の中の密教「雑密(ぞうみつ)」とよばれていた。それに対し、「大日経」「金剛頂経」成立以後の密教を、純粋な密教という意味で「純密」とよぶ。 インド密教は、その後数世紀にわたって発展してさかえたが、しだいに本来の性格をうしなって左道化したタントラ仏教となった。そして1203年、密教の根本道場だったビクラマシラー寺院がイスラム教徒によって破壊されるとともに衰退していった。しかし密教の伝統はたえることなく、8世紀にはパドマサンババがチベットにつたえて独特の仏教となって発展した(→ チベット仏教)。また、善無畏(ぜんむい)、金剛智(こんごうち)、不空(ふくう)らのインド僧は、8世紀の中ごろから後半にかけて中国にわたって密教をつたえ、これは唐代にさかえた中国密教の源流となった。
日本には平安時代以前にも、若干の雑密がはいっていた記録はあるが、もちろん細々とした流れにすぎなかった。日本に本格的に密教がつたえられたのは、平安初期に空海が入唐し、不空やその高弟の恵果(けいか)から純密をうけてつたえたのが始まりである。空海は両界曼荼羅をはじめ、多数の密教経典をもちかえり、これらを再編成して、日本真言宗を開創した。これが密教が宗派として独立した最初である。 いっぽう、当時の中国で盛んだった密教に対して無関心でいられなかった天台宗でも、最澄、円仁、円珍らが入唐して密教をつたえた。真言宗の密教を東密(とうみつ)とよぶのに対して、天台宗のそれを台密(たいみつ)とよんでいる。天台宗では学徒がおさめるべき業に、止観業と遮那業(しゃなごう)をたてるが、密教は遮那業にあたる。最澄がつたえた密教を根本大師流、円仁のを慈覚大師流、円珍のを智証大師流とよび、あわせて根本三流または台密三流という。円仁の門下からは、覚超と皇慶による川流と谷流の2流がでて、さらに台密の大成者となった皇慶の門からは、台密十三流とよばれる13の分流が派生した。 真言宗では、空海の両部不二の思想により、長く分派はおきなかったが、平安末期にいたり、覚鑁の自性加持説によって分派がおこり、新義真言宗と古義真言宗にわかれた。教勢的には東密が圧倒的に強く、空海の「弁顕密二教論」も、密教の側からするどく顕教を批判する立場をとっている。 密教はもっとも深遠な教えといわれるが、身・口・意の三密が仏の三密と感応することを考えれば、密教の信者は仏の生活をまなぶことによって成仏できるのである。 → 密教美術
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