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19世紀後半の日本が、江戸時代の幕藩体制から明治の近代天皇制にうつりかわった大変革の総称。御一新ともいう。
維新変革の背景には、西欧列強の外圧と、幕藩体制内部におこった体制的矛盾があった。これが内憂外患とよばれた歴史的な要因だが、外圧とは、インドや中国の植民地化をすすめていた西欧列強資本主義の東アジア進出をさす。アヘン戦争での中国敗北の情報もいちおう知っていた鎖国中の日本は、幕府首脳陣だけでなく、天保期(1830~44)以降、対外的な危機意識を強めていた。 いっぽう幕藩体制の内部矛盾とは、江戸中期以降の商品経済の発展を基盤に、開国後、急速に発展した小ブルジョワ経済が農民階層の分解をすすめたこと、在郷知識人・豪商らが中・下層武士とむすびつき、政治運動の主力に成長したことである。とくに藩政改革を成功させ、いちはやく家臣中・下層の人材登用をおこなうことができた外様の西南雄藩が、その後の維新政治をリードした点は特筆される。
明治維新がいつはじまるかについては諸説あるが、ペリーのひきいるアメリカ東インド艦隊が、1853年(嘉永6)琉球諸島・小笠原諸島を経由して浦賀に来航し、圧倒的軍事力で開国をせまった時点とするのが一般的である。列強資本主義諸国の日本進出の始点と位置づけられるためだが、老中阿部正弘は、これを国家の一大事として朝廷に報告するいっぽう、大名・幕臣から一般町人までひろく意見をださせ、幕藩体制の再建をはかった。また、川路聖謨・筒井政憲・江川太郎左衛門・高島秋帆・勝海舟らの幕臣を、身分や格式にかかわらず海防掛(がかり)をはじめとする要職に登用。幕府政治も実務官僚の手にうつっていくことになった。 1854年(安政元)に神奈川条約、58年に安政五カ国条約をむすんで開国した日本は、同時に多くの内政問題もかかえることになる。まず、通商条約締結を前に将軍継嗣問題がおこった。次期将軍に一橋慶喜をおす一橋派と、和歌山藩主の徳川慶福(よしとみ)をおす南紀派が対立し、大老となった井伊直弼が独断で慶福にきめたため、14代将軍徳川家茂が誕生する。井伊はまた、天皇の許しをえずに通商条約をむすんだため、継嗣問題でやぶれた一橋派は、違勅調印に対して尊王を、開国に対しては攘夷(じょうい)をとなえ、対立姿勢を強めた(→ 尊王攘夷運動)。これに対し井伊は、安政の大獄という大弾圧をおこなったため、60年(万延元)桜田門外の変で暗殺された。 開国後、イギリスのジャーディン・マセソン商会やデント商会ら大手商社が横浜など開港場に進出し、幕府御用商人の三井や中居屋などの商人も出店して、生糸・茶などの輸出を中心に取り引きが活発化した。生糸生産地ではマニュファクチュア(工場制手工業)経営が展開したが、生糸値段の高騰から物価も上昇した。金銀比価の相違から、良質の日本貨幣が海外に流出したことが、経済混乱をますます大きくした。
井伊暗殺後の政権は公武合体運動をおしすすめ(→ 公武合体論)、尊王攘夷運動と対立をつづけたが、攘夷運動は、1863年の文久3年8月18日の政変、および翌64年(元治元)の禁門の変で国内的に挫折し、対外的にも薩英戦争(1863)・四国艦隊下関砲撃事件(1864)によって不可能をさとることになる。その中で幕府は、一橋慶喜を将軍後見職に、福井藩主の松平慶永を政事総裁職につけて、職制改革・軍制改革などの幕政改革をすすめた。攘夷運動に挫折した勢力は、幕府から朝廷への政権移譲をもとめて討幕運動をはじめ、その中心となった薩摩藩と長州藩が、66年(慶応2)土佐藩の坂本竜馬の仲介で薩長同盟をむすんだのち運動は本格化する。 幕府はフランスをたよったが、討幕派の雄藩連合はイギリスの支持をうけ、その軍事力は幕府勢力をうわまわることになった。公議政体論をうちだしていた幕府は、1867年10月大政奉還をおこなったが、12月には討幕派により王政復古の大号令がだされ、摂政・関白とともに征夷大将軍職が廃止となり、二百数十年にわたった江戸幕府がほろんだ。しかし、翌68年1月の鳥羽・伏見の戦にはじまる戊辰戦争の終了までは、新政府の完全な勝利とはいえなかった。 討幕運動の盛んだった慶応年間(1865~68)には、一般民衆も積極的に行動をおこした。経済的混乱でくるしい生活をしいられていた小作農・下層農民や都市住民は、世直しをスローガンとして、特権商人・豪農らに対してたちあがり、各地で多数の一揆をおこした(世直し一揆)。とくに1867~68年、江戸以西の街道筋でおこった「ええじゃないか」の大乱舞は、民衆の幕府への世直し要求が宗教的形態をとって爆発したもので、討幕運動を後押しする結果となった。 新政府は戊辰戦争をすすめるいっぽう、1868年3月、政府基本方針である五カ条の誓文を発表。しかし、つづいてだされた五榜の掲示は、旧幕府時代の高札の内容をひきついでおり、閏(うるう)4月の政体書の発表によって三権分立・世論公議・太政官制に着手された。7月、江戸を東京と改称し、9月、明治と改元する。
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