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中国の「魏志倭人伝」にみえる、2~3世紀の日本(倭国)にあった古代国家。邪馬壱国(やまいちこく)とする説もあるが、伝本の誤写か。2世紀末から倭国内では大乱がおきていたが、長期の抗争をおさめるために邪馬台国女王の卑弥呼が共立され、小国約30カ国による国家連合体が生まれた。邪馬台国はこの連合体の中心で、7万余戸の人口があったという。卑弥呼のいる宮室や楼閣などは城柵や兵士によって厳重に防備され、執政する卑弥呼は、ほとんど顔をみせなかった。 支配体制としては、国内に伊支馬(いきま)・弥馬升(みましょう)などの4官があり、伊都国(いとこく)には外交担当官の一大率(いちだいそつ)と市場監督官の大倭(だいわ)がおかれた。 魏が朝鮮半島に進出してくると、卑弥呼は239年に帯方郡を通じて魏に朝貢の使者をおくり、魏帝から親魏倭王として支配下に入ることをみとめられた。その後、連合体の南にある狗奴国(くなこく)と戦闘状態に入って苦戦し、魏帝の詔(みことのり)や黄幢(こうどう:軍旗)をえて権威づけをしたが効果はうすく、卑弥呼は戦いのさなか死没したという。死後に男子後継者をたてたがおさまらず、一族の娘である台与(とよ)を共立して連合を回復した。台与は晋に朝貢したが、その後どうなったかは不明である。
邪馬台国の場所はほぼ全国にあてはめる説があるが、有力なのは北九州と畿内である。「魏志倭人伝」は邪馬台国までの距離・方角をしめすが、ここにある記載の不備が論争のもとになっている。北九州説は筑後国山門郡(やまとぐん:福岡県みやま市一帯)とする説が有力で、この説では邪馬台国までの方角はただしく、距離記載は外交の要衝にあたる伊都国から放射状によみとるとする。環境的にも、北九州は弥生文化の流入口で、当時もっとも先進的で高度な文化があった。 対する畿内説では奈良県の三輪山山麓(さんろく)あたりが有力視され、距離記載をただしいとし、方角をずらして畿内にあてはめる。「魏志倭人伝」にある卑弥呼の墓が、大和ではじめてできる古墳であるらしいこと、つぎの4世紀半ばの大和政権の成立がスムーズに説明できること、魏鏡とされる三角縁神獣鏡が京都府の椿井大塚山古墳や奈良県黒塚古墳から大量にみつかっており、畿内から全国にわけられていったと考えられることなどが根拠となっている。 しかし、最近では中国の出土例や銘文、材質の科学的分析などがすすみ、卑弥呼が魏から手にいれた銅鏡は別のもので三角縁神獣鏡は日本でつくられたという説も有力となりつつある。この場所がどこかによって邪馬台国の国家的な力量の評価が大きくことなるため、論争のゆくえはきわめて重要である。
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