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4世紀中ごろ~7世紀末に畿内地域にあった律令国家以前の国家。大和王権・大和朝廷・大和国家ともいう。これが前代の邪馬台国とどのように関係するかは不明。4世紀中ごろには、大和の磯城(しき)・磐余あたりを本拠に畿内豪族が連合し、大和政権の基礎を確立した。そのことは前方後円墳が畿内地域で成立し(→ 古墳)、約1世紀をかけてしだいに地方にひろがっていったこと、また倭国として391~404年に朝鮮半島に渡海して高句麗とあらそうほどの国力をもったことから推測できる(→ 広開土王)。
5世紀には倭の五王が中国の南朝(宋)に朝貢して朝鮮南部の利権を主張し、百済・高句麗よりは下位だったが、倭王の国際的な地位を確立させた。一方では渡来人を流入させて国力をやしない、経済力・軍事力は飛躍的に上昇した。こうして国内の支配体制が充実し、5世紀後半の雄略朝には東北南部から九州中部まで大和政権の強い影響下にはいった。大和の王もただの王ではなく、王の中の王である大王(おおきみ)としての自覚をもち、地方豪族との関係も、ゆるやかな政治連合体から大王の宮につかえるような従属と支配という関係にかわっていく。
5~6世紀後半にしだいに氏姓制度が確立し、大和政権とのかかわり方で格付けされる支配体制ができあがる。政権内の職務を分担する伴造・品部(しなべ)の制度がつくられ、農民は部民としてその下に組織された。各地の豪族もこれにならい、たとえば春日氏が春日部というように農民を編成し、全国の人民はいずれかの部民となった。地方豪族は県主・国造として大和政権の官吏としてあつかわれ、これに反抗するものは、大伴連・物部連などの軍事氏族が制圧した。また国造からは屯倉や名代・子代(なしろ・こしろ)などの人民・土地をとりあげ、国造の一族に管理させた。 しかし、大和政権内でも複数の王系の抗争があり、4世紀末ごろには河内に本拠がうつった。6世紀初頭にも越前の男大迹(おほど)王(継体天皇)の即位をめぐって大和の豪族をまきこむ混乱がおきた。こうした内紛にくわえ、朝鮮半島で新羅の台頭により、朝鮮南部との外交関係はゆらいだ。日本は4世紀後半から百済と軍事同盟をむすび加羅とは強いむすびつきをもっていたが、532年に金官加羅などが新羅に併合され、562年新羅の攻勢をうけてのこる加羅諸国もほろんだ。
しかし6世紀には政権中枢は権力の集中にむかい、大臣・大連が中心になって強力に主導してしだいに官司制へとすすんだ。部民を官司の統率下において氏族制度の職務分割体制を克服し、氏族員の官僚化によって中央集権体制をかためようとしたのである。 この政策は大臣の蘇我氏が中心となってすすめ、7世紀の推古朝で聖徳太子が冠位十二階・十七条憲法で制度化した。推古天皇や聖徳太子はさらに遣隋使をおくって中国の法制・制度の導入をはかる。この動きを加速したのが唐の高句麗遠征で、危機感をもった中大兄(なかのおおえ)皇子(天智天皇)らは645年(大化元)乙巳の変(いっしのへん)で権力をにぎると、ただちに大王(天皇)を中心とした律令制的中央集権国家体制をつくることを表明した(大化の改新の詔)。しかし当面する唐との対決では、663年(天智2)白村江の戦にやぶれて百済救援に失敗し、朝鮮半島での潜在的な利権も完全にうしなった。 それでも国内改革は継続し、大和政権の基礎であった部民と氏有の田荘などはほぼ公民・公地となって国家に一元的に支配され、地方に勢力のあった国造は中央から派遣される国司の配下となった。土着豪族としての氏族の力量は否定され、個人の職能を評価される官僚群が大規模に養成された。こうして天武朝(672~686)から持統朝(686~697)の端境にあたる7世紀末近くになって、大和政権は律令国家へと移行することになる。
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