![]() |
Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 項目構成
中国山西省大同市の西約16km、武州山(武州塞ともいう)南麓(なんろく)にある石窟寺院。大小200余窟をかぞえ、そのおもなものは武州川北岸の東西約1kmにわたって開かれている。山麓の形によって、石窟は東部、中央、西部の3部分にわけられる。雲岡石窟文物保管所の最新の調査によって、主要な窟室45基、付属の窟と龕(がん:壁面に掘られたくぼみ)207基にわけて整理されている。石質は明るい砂岩で、ほとんどの大窟が北魏文成帝の和平元年(460)から孝文帝の太和18年(494)洛陽遷都の時期までに開削されていたが、比較的に小さな窟龕の造営は孝明帝正光末(524)にいたるまでつづいた。敦煌石窟、竜門石窟、麦積山石窟とともに中国4大石窟と称され、大同石仏の名でも知られている。
北魏の歴史書である「魏書・釈老志」によれば、和平元年(460)、宗教長官だった沙門統曇曜(しゃもんとうどんよう)がときの皇帝文成帝に、先帝(道武帝、明元帝、太武帝、太子晃)と今上(文成帝)のため、「京城(大同)西の武州塞において山の岩壁を切り開き、石窟5所をつくり、その石窟1つずつに大仏像を彫りだすことにしたい」と奏上した。これが雲岡石窟の始まりである。465年ごろに完成されたこの最初期の5窟は、現在の第16~20洞のいわゆる「曇曜5窟」で、石窟群の西部にある。それぞれの石窟内部の造像はいずれも高さ十数メートルに達する大仏で、「高き者70尺、次に60尺。彫飾奇偉にして一世に冠たり」とつたえられる曇曜奏請の5窟に比定される。 曇曜5窟は、いずれもほぼ楕円(だえん)形のプラン(平面)にドーム状の頂部をもつ窟構造で、北壁に仏立像、仏座像、菩薩交脚像など巨大な主尊が彫りだされる。最大の石窟は第19洞で、高さ16.8mの座仏本尊、周壁の千仏、左右の脇侍(きょうじ)仏がある脇洞よりなる。本尊座像は右手を胸前にかかげ、左手を膝(ひざ)上において衣端をとる姿勢である。顔部はあごを欠くが、頭部、体躯ともにがっしりしたモデリングで、大きな耳、切れ長の目などいかにもたくましく、その量感あふれる造形は雲岡初期様式を代表するといえる。 前壁がおちて露座となった第20洞の本尊は高さ13.7m、膝から下をのぞいて保存状態は良好である。巨大な体躯と雄勁(ゆうけい)な風貌(ふうぼう)は、壁からとびだすほどの迫力ある印象をあたえる堂々たる仏像である。肩幅のはった上体や隆起線による衣紋(えもん)は、アフガニスタンのバーミヤーン石窟の大仏と炳霊寺石窟169窟6号龕の主像を思わせる。第18洞は高さ15.5mの本尊立像を中心に、左右の脇侍立像と本尊の間にさらに菩薩があり、上方に十大弟子がある。 第17洞は、その15.6mの本尊が曇曜5窟中唯一の交脚弥勒像で、ほとんど窟内いっぱいに彫りだされる。第16洞の本尊は、高さ13.5mの仏立像。それらの面貌、体躯は豊かで、衣紋はうすくて身体にはりつき、インドのグプタ様式と中央アジアの諸様式を融合した雲岡独特の様式である。曇曜5窟はいずれも大像で、純朴、雄壮と形容される形象は、あたかも拓跋氏の遊牧民生活を彷彿(ほうふつ)させるかのようである。
文成帝以降洛陽遷都までは、孝文帝と熱烈な仏教信者である祖母の胡太后による積極的な漢化政策の影響をうけ、北魏の仏教は繁栄の一途をたどった。石窟の造営も活発をきわめ、開削された窟数がもっとも多く、雲岡の最盛期であるといえよう。第7、8洞、第9、10洞、第5、6洞など中央の石窟群が完成すると、石窟の造営は東方へ、さらに西方へと広がっていった。 第7、8洞にいたると、形式は多様になり、複雑な様式、豊富な題材、華麗な装飾をそなえるようになった。新しい造形、題材、服制をそなえた造像が出現したが、新旧の共存、交代という現象もみとめられる。第7、8洞にみられる護法神像、第9、10洞の列柱正面、前室のフリーズ状の説話浮彫などのように、曇曜5窟よりも西域からの影響が強く感じられるものもあるが、漢~魏以来の分層、分段で、榜題(ぼうだい)を付した壁面の構成、中国の伝統的な建築形式および装飾、六朝(→ 六朝文化)の士大夫階層がこのんで身に着けた褒衣博帯(ほういはくたい:大きな裾(すそ)の服と幅広の帯)式の服飾なども、この時期にあらわれるようになったのである。都の平城(大同)地区では盛んな東西交通、南北往来の中で、雲岡初期の模索段階を基礎として、各地の石窟芸術の有益な部分を手本とし、新しい様式と特徴をそなえた太和(孝文帝年号)式造像を形成したといえよう。 洛陽に遷都ののち、皇室による大型窟室の造営は中断されたが、平城にとどまったり、避暑におとずれる多くの貴族や中下級官吏、あるいは一般の信者たちは、平城にのこされた技術と資料を活用し、雲岡に多量の中小型の窟龕を開いた。太和10年(486)以後出現した新たな服制、新たな造形、新たな技法の造像を継承するとともに、3壁3龕式の石窟、宝帳式の龕装飾、洛陽地区で形成された「秀骨清像」式の造像などもあらわれた。 雲岡石窟は、新疆(→ シンチアンウイグル自治区)以東においてもっとも早期に出現した大型石窟群であり、当時の北中国を支配していた北魏皇室が、全国の技術、人力、物質を結集して造営したものであった。20世紀初め、伊東忠太、関野貞によって紹介され、1938~44年には東方文化学院(現、京都大学人文科学研究所)の水野清一、長広敏雄らによって実地調査がなされ、その成果は「雲岡石窟」16巻(1951~56)にまとめられた。
© 1993-2008 Microsoft Corporation. All Rights Reserved. |
© 2008 Microsoft
![]() ![]() |