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15世紀から19世紀まで沖縄にあった王国。沖縄では、10~11世紀ごろから各地に按司(あじ)とよばれる豪族があらわれ、14世紀になると沖縄本島を中心に、三山とよばれる3つの小国家が成立した。北部の今帰仁城を拠点とする山北(さんぽく)・中部の浦添城(うらそえじょう)を拠点とする中山(ちゅうざん)・南部の大里城を拠点とする山南(さんなん)で、それぞれ中国の明に朝貢し、東南アジアとの中継貿易によって勢力をたくわえてたがいに抗争・対立していたが、やがて中山の勢力が他を圧倒して統一王国が成立する。
中山では、1406年、尚巴志がそれまでの王統をほろぼし、首里城を拠点として尚氏の王統(第1尚氏王統)が成立、16年には山北、29年には山南をほろぼして琉球の統一に成功し、第1尚氏王統による琉球王国が成立した。しかし、尚巴志の死後は、王位継承をめぐる内乱や有力豪族の反乱があいついで発生、69年内間金丸(うちまかなまる)を中心とする勢力のクーデタにより、第1尚氏王統は7代63年間でほろんだ。翌年に即位した金丸は尚円(しょうえん)と称し、ここに第2尚氏王統がはじまる。新王朝は3代目の尚真(しょうしん)のとき、先島諸島までを勢力下におさめて基礎がかたまり、以後、繁栄をつづけて第2尚氏の王統が明治期までつづいた。
琉球は、中国の明をはじめ、日本や朝鮮などの東アジア、東南アジア諸国との中継貿易を主とする貿易立国であった。第2尚氏の尚真のころ(1477~1526)、とくに中国との朝貢貿易は隆盛をきわめた。日本との交流も古くからあったが、豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際、薩摩島津氏を通じて兵糧(ひょうろう)を強要したため、かえって明にかたむき、関ヶ原の戦後の徳川家康の服属要求にも応じなかった。 1609年(慶長14)、幕府の承認のもとに、薩摩藩主島津家久が3000余の大軍をもって琉球に侵攻し、敗北した琉球王国は日本に服属することとなった。しかし幕府と薩摩藩は、琉球の特殊な役割、とくに貿易の利益をえることに期待したため、王国体制をのこし、薩摩藩による間接支配がはじまった。明との朝貢(ちょうこう)・冊封(さくほう)関係も維持され、以後、琉球王国は首里王府のもとで独自の官制、法制、身分制、土地・税制などをもちながら、薩摩藩の支配をもうけるという特異な「国」となった。それによって薩摩は王国の人事権をにぎり、高額の税金を課し、進貢貿易を管理して大きな利益をえた。→ 琉球征服
近世の琉球王国の身分制は系図の有無によって、系図をもつ支配側の士(系持:けいもち)と、系図をもたない支配される側の百姓(無系:むけい)にわけられている。官制は、首里の王府を中心に、国王を補佐する摂政(せっせい)、その下に3人の三司官が、さらにその下に表(おもて)十五人という長官クラスの合議機関があり、そこには多くの役人がいて実務をとった。上級の役人は、地方の間切(まぎり)・村を領地とする地頭がしめていた。 宗教面では女性がになう国家的な神職組織があり、王の統制下、聞得大君(きこえのおおきみ)を頂点として、ノロとよばれる村々の巫女(みこ)まで、ピラミッド形に巫女たちが編成され、大きな力をもっていた。 地方は間切という広域の行政単位にわけられ、その下に村が10カ村ほどあり、行政支配の最小単位であった。村の耕地は、地割制度によって、数年か数十年ごとに抽選で村人にわりあてられた。税は耕地の収穫にかけられるほか、さまざまな名目の労役も課されていた。王府と薩摩の二重支配ということもあり、税負担はかなり重いものだった。税は基本的には一定の基準があって頭割りに課される人頭税で、とくに宮古・八重山では、作物のかわりに布(上布)を人数分おさめなければならず、重い負担は人々をくるしめた。
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