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Windows Live® の検索結果 1793~1841 江戸後期の蘭学者・画家。名は定静(さだやす)、通称は登(のぼり)、崋山は号。三河国田原藩士の長男として江戸藩邸に生まれ、金子金陵・谷文晁らに絵画、佐藤一斎・松崎慊堂(こうどう)らに儒学をまなぶ。父が病身のため、まずしい少年時代をすごした。 藩士としての崋山は、1832年(天保3)に年寄役(家老)兼海防掛、36年に江戸留守居役を歴任するなど、1万2000石の小藩ながら重臣として活躍した。年寄役時代に本格的な蘭学研究をはじめ、シーボルト門下の高野長英・小関三英らと交流して尚歯(しょうし)会を結成し、西洋事情をまなんだ。 1837年のモリソン号事件では幕府の鎖国政策を批判し、「慎機論」をあらわして異国船打払令の無謀さを説いた。これは完成されず未公開のものだったが、幕府目付の鳥居耀蔵(ようぞう)の陰謀により39年の蛮社の獄でとらえられ、国元で蟄居(ちっきょ)処分となった。41年に江戸で門弟が崋山の生活をたすけるためにひらいた画会が不謹慎であるとあやまってつたえられ、藩主に迷惑がかかるのをおそれて自殺した。 画家としては、遠近法など西洋画の手法をとりいれたことで有名。代表作には、肖像画の「鷹見泉石像」、庶民生活をえがいた「一掃百態」、天保の飢饉をテーマにした「荒歳流民救恤(きゅうじゅつ)図」などがある。
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