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政治的、宗教的、人種的迫害の危険から、本国をのがれて他国にうつり保護をもとめること。亡とは逃、命とは名のことで、「名籍を脱して逃亡すること」が原意。20世紀にはいると大量に発生して国際機関による対処がもとめられるようになり、今日では難民問題としてあつかわれている(→ 難民)。 英語のrefugeeは「亡命者」とも「難民」とも訳されるが、大量の場合を難民とし、単独の場合を亡命としたり、個々の事例における庇護の付与を亡命とするなど、扱いは多様で、移民、難民、亡命のおのおのを画然と区分けすることは困難である。 事実、国連の「難民の地位に関する条約」(難民条約)では、上記した政治的、宗教的、人種的迫害により本国をのがれている人々を難民としており、亡命との区別はない。また自然的、経済的理由で流出する人々を条約では難民の規定にいれておらず、その点からも亡命と難民は同一のものと理解される。ただ日本においては、これまで主として政治的亡命をさして亡命と考えられてきており、少人数がみずからの意志をもって他国に保護をもとめる場合をさしていた。この項ではそうした点をふまえ、歴史的に亡命の問題をあつかうことにする。 歴史的にみれば、亡命は否定的意味ばかりでなく、亡命者をうけいれた国がその亡命者の力によって社会的、文化的変容をとげるという積極的な面をもっていたことも、みのがせない点である。
亡命の歴史は、人類の争いの歴史とともに古い。近代では、16世紀のフランスで、ユグノーとよばれた新教徒(カルバン派)が迫害をのがれてオランダ、ドイツ、スイス、ロシアへ大量にのがれ、定住国の産業の振興をもたらした。 1789年にはじまるフランス革命は、王侯貴族や僧侶を支配階級の座からひきずりおろしたが、彼らはイギリス、ドイツ、オーストリア、ロシアなど周辺諸国にのがれ、émigré(亡命貴族)とよばれた。彼らは、亡命先の王侯貴族の援助で革命フランスに干渉し、ヨーロッパじゅうをフランスとの戦争にまきこんだ。 ナポレオンの敗北後フランス社会に復帰した亡命貴族たちは、革命時代に国有財産として没収された所有地や財産の返還を要求したが、これは補償金支払いというかたちで解決された。フランス革命が宣言した市民的自由の定着にともなって、19世紀に各国で、政治亡命者の本国への不送還(ノン・ルフールマン原則)が慣習国際法上成立した。
19世紀半ばのヨーロッパ大陸は、危機を深める絶対主義国家(→ 絶対王政)と、それを打破しようとする自由主義勢力との間に政治的緊張が高まっていく時代であった。1830年にポーランドでロシアの支配に反対する国民的蜂起がおこったことを契機として、作曲家ショパンは亡命の道をえらんだ。詩人ハイネは、30年のフランス七月革命を機に後進国ドイツを後にしてパリにうつった。くるしい亡命生活の中で、彼らは代表作を次々と世におくりだす。 48年革命は、自由主義、社会主義勢力の敗北におわったドイツ、オーストリアから、多くの亡命者を生みだした。社会主義者マルクス、エンゲルスはイギリスを最終亡命地とさだめ、先進国イギリス資本主義を分析して「資本論」を完成させた。ロンドンは作家アレクサンドル・ゲルツェンら亡命ロシア人たちをふくめ、各国の亡命者であふれかえり、ヨーロッパの革命運動の中心となった。またアメリカを亡命地にえらんだドイツ人も多かった。
1917年のロシア革命は、社会主義国ソ連を出現させたが、革命に敵対行動をとったため、あるいは飢餓状況からの脱出をもとめて、大量のロシア人が亡命した。彼らは革命軍(赤衛軍)に敵対して内戦をたたかった白衛軍の軍人や兵士が中心であったため、白系ロシア人とよばれた。 亡命者総数150万~200万人のうち約半数がフランスとドイツにうつり、そのほかロシアの周辺諸国、アメリカ、カナダが定住国となった。日本にも少数が亡命し、ロシア料理店を開いた者もいる。作曲家ラフマニノフ(アメリカに移住)、画家シャガール(フランスに移住)などが、この時期の亡命者にかぞえられる。 ロシア革命の直接の影響下で、ほかのヨーロッパ諸国にもいくつかの社会主義政権が成立したが、結局は反革命によってたおされた。革命政権の閣僚だった者は亡命を余儀なくされ、ハンガリーの作曲家バルトークはアメリカに移住し、哲学者ルカーチはオーストリア、ドイツをへて、ナチス政権(→ ナチズム)成立後ソ連に移住し、第2次世界大戦後ハンガリーに帰国した。
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