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水のもつエネルギーで羽根車などをまわし、機械的な動力をえる回転型の原動力機。水車の起源は古く、すでに紀元前から種々の型の水車がつくられ、利用されてきた。正確な起源は不明だが、最初、西アジアで穀物を粉にする石臼(いしうす)をまわすために水車が考えだされ、これがヨーロッパにつたわり、中世に発達したといわれている。 アラビア人は、下掛け水車をとりつけた平底船をティグリス川にうかべ、粉つきや製紙などの動力にしたという。中世ヨーロッパでは、水車を利用した製粉所が各地につくられ、ルネサンス期から18世紀には、鉱山の排水の動力源や、鉱石粉砕や冶金(やきん)炉用のふいごの動力源、また紡績機械の動力源としてつかわれるようになった。 蒸気機関の発明によって、水車は動力源としての地位をうばわれるようになっていった。とはいえ水車の発達は、歯車、軸、軸受、クランク、リンク装置など、機械要素の技術を発展させた。
中国では、後漢(→ 漢)の初めに水車を利用した水碓(すいたい)という搗臼(つきうす)が利用されたといわれる。三国時代から六朝の時代には、水車の動力によるローラーで穀物をひきつぶす水碾(すいてん)や、水車を利用した水磑(すいがい)という磨臼(すりうす)がつかわれ、唐から宋の時代には、灌漑につかう水車である筒車(とうしゃ)が発達し、一般に普及した。 これらの水車の構造や技術的な優秀さは、元の時代の「王禎(おうてい)農書」や明の時代の「農政全書」「天工開物」にくわしく記述されている(→ 農書)。また、宋代以降には、水車で石臼をまわす水磨(すいま)が茶の葉をひく作業につかわれ、明代の水車は鋳造につかうふいごの送風や紡績に利用され、さらに清代には水碓が陶土や香木をつくのにつかわれた。
日本に水車がつたわったのは、610年(推古18)のころとされている。「日本書紀」には、高句麗の僧曇徴が、碾磑(てんがい)という「みずうす」をつくったという記録があるが、これがどのようなものであるか詳細は明らかではない。平安時代の829年(天長6)には、良峯安世(よしみねのやすよ)が灌漑用の水車を諸国につくらせた。水車をつかって水田に水をくみいれている様子は、「石山寺縁起絵巻」にもえがかれている。 江戸時代中期にはいってから、水車は本格的に精米用の動力源として利用されるようになった。もちろん灌漑用の水車も各地でつかわれていたが、希少な農業用水や水利権をめぐるトラブルが頻繁におきたため、水車の自由な利用はさまたげられ、その発達はおくれがちであった。 江戸時代後期からは、菜種や綿実の油搾りのために水車が利用され、さらに薬種粉末、胡粉(ごふん)などの絵具、線香の粉末などの製造工程に水車がつかわれていた。桐生地方では水力を利用した撚糸機械が発明され、佐賀藩や水戸藩では、洋式の反射炉を導入するとき、炉への送風や砲身をけずる機械の動力源として水車を利用した。また佐渡金山では、金鉱石の粉砕に水車を利用し、幕末の薩摩藩では、西洋式の紡績機械の動力源に水車をつかっている。
日本の機械工業の中で本格的に水車が動力源として登場するのは、やはり明治維新後のことである。明治元年に、広島綿糸紡績所の動力として水車が設置されたのを皮切りに、殖産興業政策の遂行のために各地の事業所で水車が導入された。その結果1909年(明治42)には、農業用の水車をのぞき、5人以上の職工がいる工場での水車台数は2390台におよぶようになった。 ヨーロッパにややおくれて電力事業がはじまった日本では、はやくから電力を工業用動力源として導入したため、ヨーロッパのように長く水車が機械工業の主要動力源となることはなかった。とはいえ、今日でも、精米、製粉、製材、揚水用などに水車がつかわれているところも少なくない。小型のものまでふくめると、日本全国で100台以上の水車が実際に稼働しているといわれる。
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