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1625~1712 イタリア生まれの天文学者。イタリアおよび後年のフランスでの天文観測により、大きな成果をあげたことで有名である。ニース近郊、イタリアのペリナルドで生まれた。1673年にフランスに帰化してからは、フランス風にジャン・ドミニク(Jean Dominique)とも称した。最初の職は、占星術を道楽とする貴族のもとで天文学表の計算をする仕事だった。1650年には、25歳という若さでボローニャ大学の天文学の教授となった。 カッシーニは彗星の運動と、太陽の見かけの動きを観測することで名声をきずいた。当時もっとも性能のよい望遠鏡をもちいて木星の衛星を観測し、その軌道の正確な表をつくった。このおかげで、船乗りたちは木星の衛星を「天空の時計」とみなし、洋上の船の経度をわりだせるようになった。また、火星に季節的な変化があることを発見し、火星と土星の自転周期を計測した。 1669年にルイ14世の招きに応じてパリに出、パリ天文台の設立に協力し、のちに同天文台の初代所長となった。この天文台で、71年にイアペトゥス、72年にレア、84年にディオネとテティスと4つの土星の衛星を発見し、さらに土星の環の間に隙間(すきま)があることをみつけた。これは現在「カッシーニの間隙(かんげき)」とよばれている。また地球から火星までの距離を、視差をもとにした観測方法でわりだした。これによって、惑星との距離がより正確に計測できるようになった。 カッシーニの多くの業績によって、天文観測ではさまざまな新しい基準がうちたてられた。ただし、彼が異をとなえた理論のうち、のちに正しいとあらためて証明されたものも多い。コペルニクスの地動説には最後まで完全には同意せず、ニュートンの万有引力の法則はついにみとめなかった。さらに、光の速度が有限であるという説も否定していたが、これはかつて彼自身がおこなった木星の衛星の観測をもとに証明されたものだった。また地球の形についての主張も、後年まちがっていたことがわかった。 ほかにカッシーニは、フランスの全国測量にも着手しており、この事業はその後、曽孫(ひまご)の代までひきつがれ、1793年「カッシーニ図」として完成した(→ 地図)。 彼は1710年に視力をうしない、12年にパリで死去したが、パリ天文台長職もその後3代にわたってうけつがれた。
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