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古代ギリシャでは、直接民主政治(→ 直接民主主義)が多くのポリス(都市国家)で発展した。民主政をあらわす英語デモクラシー democracyは、ギリシャ語のデモクラティア demokratiaに由来し、デモクラティアとは、民衆(デーモス)の支配(クラティア)を意味する。古代ギリシャにおいて民主政がもっとも発達し、またその組織について今日もっともよく知られているのは、アテネの民主政である。
アテネは、いくつかの政治体制の変革を経験しながら、ミュケナイ時代の王政から貴族政、民主政へと移行させてきた。前594年、ソロンは民衆に市民権をあたえ、前561~前528年に僭主(せんしゅ)ペイシストラトスの政治を経験したものの市民の政治への参加は徐々に拡大された。そして民主政の基礎を確立したとされるのが、前509年のクレイステネスの改革である。クレイステネスは、部族制度を従来の4部族から10部族へと改編し、その下部組織としてデーモス(区)をもうけた。そして、各部族50人の代表からなる五百人評議会を設置し、その後の民主政の基礎となる制度をつくった。そして前462年のエフィアルテスの改革によって、民主政は名実ともに完成された。彼はペリクレスとともに、貴族の最後の牙城(がじょう)となっていたアレオパゴス会議の特権をうばい、それらの特権を五百人評議会や民会、裁判所に移管した。 エフィアルテスの改革の後まもなく、ペリクレスによって陪審員や評議員に対する日当の支給が導入され、下層市民も政治に参加しやすい環境が生まれた。前451年、ペリクレスの市民権法が可決され、市民権を獲得できるのはアテネ市民の両親をもつ子供に限定された。 ペロポネソス戦争での苦戦と敗戦によって、アテネの民主政は前411年と前404年の2度転覆されたが、いずれも短命におわった。しかし、ギリシャの覇権は、スパルタがにぎることになった。その後、前322年にマケドニアによって民主政が廃止されるまで、アテネの民主政は存続した。
アテネの民主政において、参政権は成年男子に限定され、女性、在留外人、奴隷(→ 奴隷制)は政治に参加できなかった。アテネの男子は18歳になると、父親の所属するデーモスに登録され、その後2年間の軍事訓練をうけたのち、民会に出席する権利を手にした。評議員その他の役職をえる権利、また陪審員をつとめる権利は、30歳になってはじめて獲得できた。ちなみに、全盛期のアテネの18歳以上の成年男子の人口は3万人ほどだった。 アテネ民主政の最高議決機関は民会であり、行政から立法、経済、外交にいたるまですべての政治を決定した。民会の議案を準備し、日常の行政を担当していたのが五百人評議会で、評議会のメンバーは30歳以上の男子市民の中からくじで選出され、1年ごとに交代した。一生のうち2回まで評議員の就任をゆるされた。他の役職についても大部分はくじで選出された。将軍職や祭祀(さいし)にかかわる職など重要な役職についてのみ、挙手で選出された。 民主政の運営で民会とならんで重要な役割をはたしたのが、民衆裁判所である。訴訟の大多数について最終的な審判をくだす権限をもっていたのが、くじで選出された6000人の陪審員からなる民衆裁判所であった。裁判所は、訴訟判決のほか、役人の資格審査や執務審査も担当した。 アテネの直接民主政治は、近代の議会制民主主義と比較されるべきものとして、今日なおその思想がうけつがれている。アテネが民主政の理想としてスローガンとしてかかげていたのは、自由(エレウテリア)と平等であった。
古代ギリシャで民主政を発展させたのは、アテネだけではなかった。史料にとぼしくその実態はほとんど不明であるが、ギリシャ世界のさまざまな地域で民主政が生まれた。 キオスでは、前6世紀に民主政の萌芽がみられた。また、アルゴスではアテネ同様に長期にわたって民主政が発達した。デロス同盟に加盟していたポリスの多くが、アテネによって強制的に民主政を樹立させられたことも知られている。前4世紀以降は、アテネ民主政の影響をうけながら、多くのポリスで民主政が採用されていった。
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