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Windows Live® の検索結果 オーストリア・ハンガリー二重帝国オーストリア・ハンガリー二重帝国 オーストリアハンガリーにじゅうていこく Austro-Hungarian Empire
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1867~1918年に、オーストリアとハンガリーが対等の2国家として連合して中心を構成したハプスブルク帝国(かつての神聖ローマ帝国)。領土としては、今日のオーストリア、ハンガリーのほかに、今日のチェコ、スロバキア、クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ(1908年併合)、セルビア、モンテネグロ、ルーマニア、ポーランド、イタリアの一部をふくむ広大な領域にまたがっていた。全人口5000万人のうち、2300万人がスラブ諸民族(→ スラブ人)だった。
17世紀末にオスマン帝国の支配を脱し、ハプスブルク家の単一支配下にくみいれられたハンガリーでは、貴族を中心とする独立闘争がつづけられた。そして、1848年革命期(→ 48年革命)には一時独立を宣言したが、ロシア軍の援助をうけたオーストリア軍によって革命が鎮圧されると、ふたたびオーストリアの支配下におかれた。帝国内のスラブ系諸民族の独立運動にたえずなやまされていたオーストリアは、66年にプロイセンとの戦争にやぶれ、ドイツ統一の主導権をうしなった。そこで、非スラブ系であるハンガリー人貴族たちと妥協して、ハンガリーを立憲君主国に昇格させるとともに、その国王をハプスブルク皇帝が兼任し、ここにオーストリア・ハンガリー二重帝国として、帝国の支配を維持することとなった。ドイツ人とハンガリー人(マジャール人)によるスラブ系諸民族の支配である。 両国はともにフランツ・ヨーゼフ1世を君主とし、それぞれに議会と政府を有したが、対外的には単一の国家として外交権を行使し、共通の軍隊をもち、関税同盟をむすんで統一通貨を発行した。外務、国防、大蔵の3省は共通とされ、首相とこの3大臣は皇帝によって任命された。帝国運営の実権は皇帝と共通内閣がにぎったが、メンバーにはハンガリー人もくわわった。しかし、帝国の内政はスラブ諸民族の独立運動によって不安定なままであり、とりわけチェコ人、南スラブ人の運動はたびたび帝国解体の危機を生みだした。
ボスニア・ヘルツェゴビナの占領と併合は、南スラブ人の統一(→ パン・スラブ主義)を志向するセルビアとの決定的対立に発展し、第1次世界大戦をひきおこした。ドイツだけを味方に連合国を敵にまわしての戦争は、軍事的敗北と帝国の解体をもたらした。1918年11月、二重帝国を解消してハンガリーが独立し、皇帝カール1世が退位して社会民主党政権のもとにオーストリア共和国が成立した。1273年にルドルフ1世が神聖ローマ皇帝にえらばれて以来つづいてきたハプスブルク帝国は、ここに終わりをつげた。チェコスロバキア、ユーゴスラビア(南スラブ諸民族の連合国家)も独立した。 オーストリア・ハンガリー二重帝国は、工業化の面ではたちおくれていたが、文化の面ではきわだって先進的であった。世紀末ウィーンでは画家クリムトや音楽家マーラー、精神科医フロイトが、チェコでは音楽家スメタナ、作家カフカが活躍し、歌劇場、市庁舎、議事堂などの建築物は、ウィーン、ブダペスト、プラハで今日もその華麗さをほこっている。
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