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一般には君主をもたず、国民主権にもとづく政治体制をいう。フランスでは、18世紀末のフランス革命当時から今日までの200年余りの間に、5回にわたって共和制を経験しており、おのおのを第1共和政、第2共和政などとよんでいる。
フランス革命の中で王の権限はしだいに制限され、1791年の憲法では立憲君主制とした。92年8月になると、パリ民衆の暴動に際して、議会は王権を停止し、同年9月にフランス共和国の成立を宣言した。しかし第1共和政においては国家元首はさだめられていなかった。やがて、ロベスピエールらの独裁がおこなわれるようになったため、テルミドール9日のクーデタでロベスピエールは処刑された。 1795年8月に制定された共和暦第3年の憲法では、フランスの統治は5人の総裁にゆだねるとした総裁政府が成立した。この政治体制は99年11月のブリュメール18日のクーデタによって崩壊し、3人の統領に統治をゆだねる統領政府が成立した。この体制を明文化したものが共和暦第8年の憲法であるが、実際には第1統領となったナポレオンの独裁であった。しかし、公式の政治体制としては、第1共和政は継続していた。第1共和政は、「共和国の統治を皇帝に委任する」ことをさだめた共和暦第12年の憲法によって、1804年5月に廃止され、フランスの正式名称はフランス帝国となった。
1848年2月にパリで革命がおきると(→ 48年革命)、30年7月に王位についたルイ・フィリップは亡命し、君主の座は空白になった。これをうけて、臨時政府は共和制の宣言をおこない、ここにフランス史上で2度目の共和制が誕生した。48年11月に制定された憲法では人民主権を確認して、はじめて大統領制を採用した。同年12月の大統領選挙で当選したのは、ナポレオン・ボナパルトの甥(おい)にあたるシャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)であった。ルイ・ナポレオンは任期切れ間近の51年12月4日にクーデタをおこして独裁制を確立したのち、52年12月に帝位につき、ここに第2共和政は崩壊した。
第2帝政下、人気の低落した皇帝ナポレオン3世は1870年7月にプロイセンに宣戦を布告した(プロイセン・フランス戦争)が、戦況は思わしくなく9月には皇帝自身が敵軍の捕虜になって帝政は崩壊した。同月、パリ市役所で臨時政府は共和制の樹立を宣言した。これによって第3共和政がはじまった。 1871年2月に選出された議会は、圧倒的に王政への復帰を希望していたが、ブルボン家支持派とオルレアン家支持派との対立などがあって、フランスのとるべき政治体制はなかなかきまらなかった。国家の首長には、「共和国大統領」という称号があたえられて、共和制が定着したのはようやく75年であった。だが、正式な憲法制定の手続きはとられず、議会や政府など、統治機構に関して作成された数種の法律が、共和政体の法的な基礎とされた。一般にこれらの法律をまとめたものが、第3共和政憲法とよばれている。 あいまいな形態で発足をした第3共和政であったが、その生命力は意外にも強く、この体制は1940年まで70年間にわたって生きつづけた。だが、39年に第2次世界大戦がはじまり、40年にドイツ軍がフランス国内に侵攻すると、政府は国内を防衛することができなかった。フランス中部のビシーにのがれた元老院と代議院 (上院と下院)は7月に合同総会を開催し、ペタン元帥に全権を委任して、新しい憲法を制定する権限をあたえることを決議した(→ ビシー政府)。これによってフランス第3共和政は、その歴史を閉じることになった。ペタンは「フランス国家」主席を名のり、共和国大統領を罷免し、独裁制をしいた。
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