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Windows Live® の検索結果 フランス革命初期に成立した議会。その後もフランスの議会では、しばしば国民議会の名称が採用されている。 フランス史上最初の国民議会は、1789年6月17日にベルサイユで成立した。母体となったのは、前年末から古い仕組みにもとづいて身分別にえらばれた代表者で構成された全国三部会であった。聖職者、貴族の代表者と第三身分の代表者の対立がつづく中、6月17日に第三身分の代表者は、自分たちが一身分の代表ではなく、フランス国民の代表であることを主張して国民議会の名称を採択した。 こののち、聖職者と貴族の代表者もここに合流したため、国民議会は公式の機関となり、1789年6月20日、憲法を制定するまで解散しないことを誓った(テニスコートの誓い)。7月9日には、国民議会は最初の作業として憲法の制定に着手したため、憲法制定国民議会を正式名称とすることになった。この機関は憲法制定議会と略称される。憲法制定の作業は91年秋には終了したため、同年9月30日をもって憲法制定国民議会は解散した。こののちの立法機関には立法議会という名称がつけられた。 2度目に国民議会という名称がつかわれたのは、1871年であった。フランス皇帝ナポレオン3世はプロイセン・フランス戦争中の70年9月に敵軍の捕虜となり、フランス帝国は崩壊した。フランスの臨時政府は71年初頭に休戦条約をむすび、フランスの再建のために2月に総選挙を実施して、選出された約650名が国民議会を構成した。この機関は75年に憲法にあたる「国家の構成に関する法律」を制定して、第3共和政(→ 共和政)を開始した。この体制化では、元老院と代議院の二院制をさだめ、これによって71年の国民議会は廃止された。 第2次世界大戦後の1946年10月27日の憲法は、一般に第4共和政憲法と称されるが、ここでも二院制が採用され、かつての元老院は共和国評議会と命名され、他方は国民議会と称されることになった。しかし、これは58年6月にアルジェリア戦争への対応をめぐって機能麻痺の状態におちいり、ド・ゴール将軍に対して全権を委譲した。こうして第4共和政下の国民議会は、このときをもって休会となった。 ド・ゴール将軍は新たに憲法を制定した。これが現在までつづく、第5共和政憲法である。ここでは立法府は二院制によって構成され、国民議会は従来と同様の名称をもつことになり、他方の議会はふたたび元老院とよばれることになった。第5共和政下の国民議会の最初の選挙は1958年11月に実施された。 国民議会は、また国民議会のおかれている施設の名称でもある。パリ市第7区のリュー・ド・リュニベルシテ(大学通り)126番地にある国民議会の施設は、元来はルイ14世と愛人のモンテスパン夫人の間に生まれたブルボン公夫人の館であり、そのため今日でも建造物の名称としてはブルボン宮殿とよばれている。フランス革命下の1790年に政府に没収され、95年に、その当時の立法府であった五百人会の建物となり、1829年以降はほぼ一貫して代議院、もしくはその後継の機関によって利用されている。この建物はセーヌ川に面してたっており、コンコルド広場をはさんで、マドレーヌ教会と左右対称になっている。
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