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皇帝によって統治される政治体制。フランスでは19世紀にはいって2度、このような政治体制がとられた。最初はナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)を皇帝とする第1帝政(1804~14、15)、2度目はルイ・ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)を皇帝とする第2帝政(1852~70)である。
1799年11月、ブリュメール18日のクーデタによって総裁政府をたおし、樹立された統領政府で第一統領になったナポレオンはしだいに独裁の傾向を強め、1804年12月、古式にのっとってローマ教皇から帝冠をうけ、世襲を原則とする皇帝の地位についた。これによって1792年からつづいていた共和政は廃止され、フランスは帝政になった。 ナポレオンの周辺ではブルボン朝の時代を思わせる宮廷儀礼が実行され、また1808年になるとナポレオンの親族や部下に大公以下の爵位があたえられた。10年には最初の妻と離婚して、ハプスブルク家出身のオーストリア皇帝マリー・ルイズの姫と再婚。ヨーロッパの王族の仲間入りをはたした。 帝政を成立させたのは、革命や戦争を通じて富を蓄積した新興ブルジョワや高級官僚などが、ナポレオンのもとで社会の秩序が長くつづくことを希望したからであった。1804年に元老院の議決と国民投票によってナポレオンを皇帝とした。職業その他が世襲によってうけつがれる時代であったから、世襲制によってナポレオンの支配体制が血統のつづく限り継続すると考えたのである。 だが、戦争が永続化し、しかも1812年にロシア遠征に失敗して以降、敗色がこくなるとブルジョワジーはナポレオンの支配に不安をもつようになり、軍人や官僚すらもが、みずからの地位をまもるためにナポレオンの退陣をのぞんだ。ナポレオンは13年10月、ライプツィヒの戦で敗北したのち、フランスににげかえり、14年3月に退位し、第1帝政は崩壊した。
1848年12月、二月革命(→ 48年革命)後帰国し、フランス共和国大統領に就任したルイ・ナポレオン・ボナパルトはナポレオンの甥(おい)にあたり、大統領になれたのも伯父の人気によるところが大きかった。大統領の任期切れが近づいた51年12月にクーデタによって大統領の任期を延長し、権限を大幅に強化したルイ・ボナパルトは翌年の12月に人民投票によって帝位につきナポレオン3世を名のり、帝政を復活させた。 皇帝はすべての権限が自分に集中する統治機構をくみたて、軍隊と官僚の支持のもとに重工業の振興や鉄道網の拡大、パリなどの都市再開発を推進した。しかし、1860年代になると一転して経済活動を自由化し、さらに政治活動、言論などの自由を容認した。こうして、50年代を「権威帝政」の時代、60年代を「自由帝政」の時代とする分類がおこなわれるようになった。 伯父と同様、ナポレオン3世も戦争が命取りになった。1870年7月、プロイセン・フランス戦争でフランスは苦戦をつづけ、70年9月のスダンで敵軍に包囲されてナポレオン3世は捕虜となり、帝政は崩壊した。同時代にはクーデタなどの手法によって、ナポレオン3世の評判はかならずしもよくはなかったが、国家主導型の経済や、公共住宅などは20世紀を予見させる新しい試みであった。
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