Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 第2次世界大戦中の1940~44年にフランス中部の温泉保養地ビシーにうつされたフランス政府のこと。正式名称は「エタ・フランセ(フランス国家)」。国家元首の名をとってペタン政権とよぶ場合もある。 フランスは1939年9月にドイツに対して宣戦を布告したが、実際の戦闘はおこなわれなかった。ところが、40年5月、突如ドイツ軍はフランスに対する総攻撃を開始したため、フランス軍は総崩れとなり、6月14日にパリは陥落した。同月16日に首相に就任した第1次世界大戦の英雄ペタン元帥は翌17日にドイツに対して休戦をもうしいれ、莫大な賠償金支払いのほか、フランス国土の5分の3をドイツ軍の占領にゆだねることになった。そして、南フランスの残り5分の2の領域には後継国家が存続することになった。ビシーに召集された上下両院議員は圧倒的多数でペタンに全権をゆだね、新しい憲法を制定する権限をあたえた。 ペタンは7月10日に第3共和政(→ 共和制)を廃止して、翌11日には国家元首の地位につき、議会を無期限停会とした。そして立法、行政などの全権を掌握し、「国民革命」の名のもとに「自由、平等、博愛」にかわり、「労働、家族、祖国」を標語とする新国家を南部非占領地帯に樹立した。新しい政権では、副首相のラバルら積極的な対独協力を要求するグループと、フランスの伝統を主張するグループが対立したが、ペタン自身は84歳という高齢で、すでに統治能力をうしなっていた。 「フランス国家」はアメリカなどに承認された主権国家であったが、敗色がこくなるにつれてドイツ側からの要求が増大した。さらに1942年、副首相だったラバルが首相になると、積極的な対独協力をおこなうようになる。43年にはフランス人労働者を強制徴用してドイツに移送したり、対独抵抗運動弾圧のためにドイツ秘密警察に協力するようになり、ドイツの傀儡(かいらい)国家にすぎなくなった。44年、ドイツ軍はフランスからの撤退にともなってペタンとラバルを独仏国境のベルフォールへ、ついでドイツ国内のジグマリンゲンへ連行した。これによりビシー政権は崩壊した。 第2次世界大戦後、ペタンとラバルはともに死刑の判決をうけ、前者は高齢によって刑の執行を免除され、監獄内で死をむかえたが、後者は銃殺刑に処せられた。
© 1993-2009 Microsoft Corporation. All Rights Reserved. |
© 2009 Microsoft
![]() ![]() |