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老い

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V

受け身の老人イメージ

日本の老人観の調査によると、老人のイメージの多くは弱い、頑固、暗い、きたない、消極的、惨めなどと否定的なイメージでとらえられている。やさしい、あたたかいといった肯定的、好意的、同情的なものの割合は低かった。

老人は、政策や保護の対象、家庭生活や地域社会での重荷としてあつかわれ、役割を喪失した人としてとらえられがちで、そのことがマイナスイメージを高めている。現代社会では役割をもち、経済的、社会的に貢献できて、社会的再生産をおこなえる者が、社会の一員とみなされる。老人は、このような価値基準をもつ社会の中心には、ほとんど入ることができないからだ。老年学

しかし現代社会では、老いることや老人は役にたたないものであるということをほとんどの人間が意識の奥底におしこんでいる。

たとえば、社会の第一線ではたらいている人であっても、老人に対し、役立たずであるなどとは声に出していえるわけではない。この社会をつくり、になってきたのはこの老人たちであり、また、今社会をうごかしている人々が老人となったとき、自分たちが役立たずといわれることになるのがわかっているからだ。

一方、老人のほうでも、自分自身を老人ではないとか、老いていないとか、役立たずではないと思いこもうとし、社会の中に自分がはたすべき役割をもとめる。さもなければ、社会の中の他者からあたえられた老人というラベルをみずからうけいれ、ありのままの自分をおしころして、社会からあたえられた、外見的な枠でくくられた老人に知らず知らずのうちになろうとする。

そのため本来なら、自分の生き方について選択できるはずの老人自身が、自分を否定的にしかとらえられなくなっている。それは老人が自分を受け身的で、施しをうけながら生きている役立たずだと思いこんでいるからだ。外からの枠でしか、老いの時期の自分を証明する手立てをもっていないと思っているのだ。

老人はその強迫的な思い込みによって、社会の再生産への参加をうながすシルバーパワー産業やボランティアなどにかかわったりしている。これは、老いてもなお何かに役だたなければいけない、無用ではないという無言の圧力が、老人をふくめた社会の人々をおそっているとみることもできる。

VI

老人像はみずからがつくりあげる

これだけ老人問題、老人福祉、高齢化社会とさけばれているにもかかわらず、老人や老いに対しては、社会がつくりあげた一方的なイメージばかりが強調される。制度や生物学的な側面からみた老人のイメージの枠ばかりがつくりだされる。しかし、それらをすべてあわせたところで、老人像や老いとは何かを浮き彫りにすることはむずかしい。ましてや老いそのもの、個々の老いをとらえることは不可能である。

老人といえば、マイナスイメージでみるか、死にむかうというきびしい現実から目をそむけるかのように、長寿者だけを美化する。また、老人のイメージを明るくするため、老人という呼び方をあらためようといろいろな呼び名をつけたりするが、それは老いを直視しないまま新しいイメージをつくり、満足していることにほかならない。

老いは、生物学的にいっても確かに肉体的に下降線をたどっていることは否定できない。だが、老いた主体は不完全なわけではなく、それ自体が老人、ありのままの老いなのである。しかし老人は老人観、老人イメージなどとして、枠でくくられ区別されてかたられてきた。それらはありのままの老いを、老いた当事者自身を、かたっていないのが実状である。

老いは、人生を自分の時間と物差しで再構成する時間である。人生の変化が不可逆的で、この後戻りできない状態を実感するのもまた、老いの時間なのではないだろうか。その人自身が時代や社会とかかわりをもち、しかも個人的存在として生きてきたことが、そこにはきざみこまれている。

また、老いが人生の終焉(しゅうえん)に近いこともわすれてはならない。そして、老いとは本来の自分の生き方、よりよい死に方を老いた人自身がみいだし、決定すべき時でもあるのではないだろうか。

老いを知るためには、外見的な枠だけではふじゅうぶんである。老人本人の声や老人の内面をも知ることによって、はじめて老いを知ることができるのだ。

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