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Windows Live® の検索結果 1767~1833 江戸後期の京焼の陶工、文人画家(→ 文人画)。木米という号は、生家である京都祇園新地の茶屋「木屋」の木と、幼名「八十八」(やそはち)をちぢめた米をあわせたもの。号はほかに九々鱗、百六散人、古器観など数多く、また耳が聞こえなくなってからは聾米(ろうべい)と号した。 年少のころから篆刻(てんこく)家の高芙蓉(こうふよう)に古器物の鑑識や書画の手ほどきをうけ、当時の中国趣味の流行の中で文人的教養を身につけていった。製陶をこころざしたのは30歳ころからで、木村蒹葭堂の家をおとずれたおりに中国・清の朱琰(しゅえん)が書いた「陶説」を読んだのがきっかけといい、奥田穎川(えいせん)に師事した。1805年(文化2)39歳で青蓮院宮の依頼により粟田口(あわたぐち)に御用窯をきずき、翌年には加賀にまねかれて九谷焼の春日山窯(かすがやまよう)の復興につくした。作品は煎茶器を主とし、中国や朝鮮の陶磁を手本にした染付、青磁など多種におよぶが、とくに染付が色彩鮮やかで斬新である。 絵は特定の師はもたず、頼山陽、田能村竹田をはじめとする多くの文人や画家たちとの親密な交流の中で独自の画風を確立した。30歳のとき東山新書画展観に山水画を出品、50歳半ば以降高揚期をむかえた。山水画が多く、陶器の絵付けに似たつややかな透明感のある色彩がうつくしい。作品数は少ないが、職業画家でなかったことが自由で率直な表現を生んだと考えられ、その独特の画趣により文人画家として高く評価されている。代表作に「兎道朝暾図(うじちょうとんず)」(東京国立博物館)がある。
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