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  • 狩野光信 - Wikipedia

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  • 相国寺>散策>法堂:蟠龍図

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狩野光信

狩野光信 かのうみつのぶ
百科事典項目

?~1608 桃山時代の画家。狩野永徳の長男。幼名は四郎次郎。のち右京助と称したが、別の狩野派の画家右京進と区別するために古右京とよばれた。永徳にひきいられて狩野派一門のひとりとして織田信長の安土城障壁画制作(1576)に参加、つづいて大坂城聚楽第など豊臣秀吉関係の諸建築にも障壁画を描いたといわれる。永徳死後は狩野派の中心として活躍。秀吉の朝鮮出兵の拠点、肥前の名護屋城(1592)など豊臣家の障壁画制作のほか、宮廷からも依頼をうけ、また秀吉没後は徳川幕府の御用絵師として徳川秀忠邸(1603)など徳川家の障壁画制作もおこなっている。

巨大なモチーフを荒々しい筆致でダイナミックに描く永徳とは対照的だった彼の作品は、江戸時代以来、下手右京と称されて狩野派内でさえいちじるしく低い評価があたえられていた。しかしたとえば園城寺勧学院客殿障壁画「四季花木図」(1600)では、金雲による細緻な奥行表現の中に風情豊かに草花が描かれ、繊細で優美な潤いある世界が生みだされている。法然院方丈、都久夫須麻(つくぶすま)神社本殿、高台寺霊屋(たまや)など光信とその周辺の画家の作品と考えられているものはいずれも同様の傾向がみられる。

永徳の豪放な作品の陰でわすれられがちであった光信の温雅な画風は、中世やまと絵を継承して元信以来うけつがれてきた狩野派のもうひとつの側面をしめすものとして、近年再評価されてきている。

1606年(慶長11)幕府の命で江戸へ下向、その帰途桑名で客死。享年44とも48ともいわれる。

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