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  • 祇園南海 - Wikipedia

    祇園 南海 (ぎおん なんかい、 延宝 4年( 1676年 )- 宝暦 元年 9月8日 ( 1751年 10月26日 )(生年について延宝5年( 1677年 )の説あり))は 江戸時代 中期の日本の 儒学者 、 漢詩人 、 文人画家 。 服部南郭 、 柳沢淇園 、 彭城百川 とともに 日本文人画の祖 と ...

  • 祇園南海 儒学者、画家 1678~1751 136ht - 明治の町家 ...

    祇園南海 儒学者、画家 1678~1751 136ht ... ぎおん・なんかい 1678~1751 紀州藩の儒者、詩人、文人画の創始者。祇園順庵(紀州藩医)の長男として江戸に生まれる。名は瑜、通称餘一、初め与一郎とも。南海は号。早くから木下順庵に師事し、新井白石、室鳩巣等 ...

  • 南海祇園汝珉、行書七絶

    紙本肉筆・・縦117.3cm、横27.5cm 「南海」の下に、陰刻「源汝珉印」と陽刻「湘雲主人」の 落款が押されている。祇園南海は紀州の人で、名は

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祇園南海

祇園南海 ぎおんなんかい
百科事典項目

1676または77~1751 江戸時代の文人画家、儒学者。名ははじめ正卿、のち瑜。南海、湘雲、鉄冠道人などと号し、みずから祇南海と称す。紀州藩医の祇園順庵の子として江戸に生まれた。14歳で木下順庵に入門。年少のころから詩文にすぐれた才能を発揮し、門下十哲のひとりといわれた。書は唐様の行書を得意とし、松浦霞沼(かしょう)とともに木門二妙と称され、詩は新井白石、梁田蛻巌(やなだぜいがん)とともに三大家ともされる。

絵をはじめた時期や師は不明だが、幼時から父とともに黄檗僧(黄檗宗)とまじわって中国文化に強い関心をいだいたらしく、時代にさきがけて「芥子園画伝」「八種画譜」など中国の版本を熱心にまなび、元と明の文人画の知識や技法など多くを身につけている。実際の絵画制作においては画譜の模写につとめると同時に実景をうつすことをこころみており、南海の作という伝承がある「山水図巻」(東京国立博物館)はそれをうかがわせる作品である。あくまで儒学者の余技の域をでなかったせいもあって、中国文人画の様式を体得して自身の様式を形成するにはいたらなかったが、日本文人画の先駆者として池大雅らにあたえた影響は大きい。

1697年(元禄10)父をついで藩の儒官となり帰国したが、3年後放蕩無頼のかどで知行をめしあげられ、城下追放となって伊都郡長原村に謫居(たっきょ)した。1710年(宝永7)ゆるされて城下にもどり、翌年に藩の儒官に復職した。この年来日した朝鮮通信使に江戸で会見する役に任ぜられ、また13年(正徳3)に藩校の湊講館が創設されるとその長となった。著書には「南海先生集」「詩学逢原(ほうげん)」「南海詩訣」「湘雲語」などがある。

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