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Windows Live® の検索結果 1676または77~1751 江戸時代の文人画家、儒学者。名ははじめ正卿、のち瑜。南海、湘雲、鉄冠道人などと号し、みずから祇南海と称す。紀州藩医の祇園順庵の子として江戸に生まれた。14歳で木下順庵に入門。年少のころから詩文にすぐれた才能を発揮し、門下十哲のひとりといわれた。書は唐様の行書を得意とし、松浦霞沼(かしょう)とともに木門二妙と称され、詩は新井白石、梁田蛻巌(やなだぜいがん)とともに三大家ともされる。 絵をはじめた時期や師は不明だが、幼時から父とともに黄檗僧(→ 黄檗宗)とまじわって中国文化に強い関心をいだいたらしく、時代にさきがけて「芥子園画伝」「八種画譜」など中国の版本を熱心にまなび、元と明の文人画の知識や技法など多くを身につけている。実際の絵画制作においては画譜の模写につとめると同時に実景をうつすことをこころみており、南海の作という伝承がある「山水図巻」(東京国立博物館)はそれをうかがわせる作品である。あくまで儒学者の余技の域をでなかったせいもあって、中国文人画の様式を体得して自身の様式を形成するにはいたらなかったが、日本文人画の先駆者として池大雅らにあたえた影響は大きい。 1697年(元禄10)父をついで藩の儒官となり帰国したが、3年後放蕩無頼のかどで知行をめしあげられ、城下追放となって伊都郡長原村に謫居(たっきょ)した。1710年(宝永7)ゆるされて城下にもどり、翌年に藩の儒官に復職した。この年来日した朝鮮通信使に江戸で会見する役に任ぜられ、また13年(正徳3)に藩校の湊講館が創設されるとその長となった。著書には「南海先生集」「詩学逢原(ほうげん)」「南海詩訣」「湘雲瓚語」などがある。
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