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Windows Live® の検索結果 ?~1345? 鎌倉末期から南北朝時代の禅僧画家。14世紀初めに元にわたり、中国で水墨画家として活躍し、1345年(至正5)ごろ帰国直前に客死した。そのため後世中国人とまちがわれることが多かった。 名ははじめ是一といったが、鎌倉浄智寺の見山崇喜(けんざんすうき)、または来朝した中国僧、清拙正澄(せいせつしょうちょう)により霊淵(れいえん)とあらためられた。元では明州(現、浙江省寧波)の天童山景徳寺などの名僧に参禅したのち、秀州(現、浙江省嘉興)の本覚寺にうつり、1344年には同寺の首座(しゅそ:修行僧の長)にのぼった。 日本に現存する作品は仏教や道教の祖師像や高僧像(→ 道釈画)などで、そのほとんどが元の名僧の賛(一隅に書かれたその絵に関する詩文)をともなっている。代表作は祥府紹密賛「四睡(しすい)図」(前田育徳会)、了庵清欲賛「布袋(ほてい)図」(MOA美術館)などであるが、中国においてすでに画名が高く、牧谿が中興した西湖の六通寺(りくつうじ)をおとずれたとき、牧谿の再来といわれ、院主から牧谿の印をさずかったとつたえられるように、牧谿風の高い精神性をもった本格的な水墨世界がつくりだされている。 当時中国、日本ともに禅宗内部において、低い身分の僧では職業画家化し高い身分では文人意識が発生して、全体として禅宗的性格がうしなわれる傾向にあったが、その中にあって黙庵は禅僧の余技画としての求道精神の色こい作品をのこしている。その一方で、「楚石語録」にいう1344年の大作「二十二祖像」は、晩年の黙庵がより実用的な作画をもおこなっていたことをうかがわせ、興味深い。
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