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小山正太郎

小山正太郎 こやましょうたろう
百科事典項目

1857~1916 洋画家。越後国長岡に生まれる。1871年(明治4)に上京し、幕末維新期にいちはやく西洋画法をまなんでいた川上冬崖(とうがい)の画塾聴香読画館(ちょうこうどくがかん)に入門。74年陸軍士官学校の図画教授係になり、ここでフランス人御雇教師(お雇い外国人)アベル・ゲリノーから図学と水彩画をまなんだ。76年、工部美術学校開設とともに入学、イタリア人御雇教師アントニオ・フォンタネージにまなび、翌年からは助手となった。しかし、フォンタネージ帰国後に着任したフェレッティの技術不足に不満をいだき、78年に学生たちとともに退学、11人の洋画家をこころざす仲間とともに十一会を結成して後進の指導にもあたった。

翌年、東京師範学校(東京教育大学の前身)の訓導に任命され、西洋画を指導。開化期の反動としての国粋主義的な思潮が強まる中、岡倉天心との間で、書をめぐる論争や普通教育での毛筆使用をめぐる論争などでつねに西洋画擁護の立場から論陣をはった。1887年、十一会をひきつぐかたちで、画塾不同舎を開き、89年には明治美術会結成に参加。90年、普通教育を洋画から日本画にかえる方針に反対し、師範学校教諭を辞職した。しかし、98年、ふたたび東京師範学校の講師となり、その間浅草で日清戦争の場面を再現したパノラマの制作にあたった。

1907年には東京高等師範学校の図画科主任になるとともに、第1回文部省美術展覧会(文展)の審査委員もつとめた。小山は、洋画家であると同時に、教育者として多くの画家、教員を養成したことでも知られる。

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