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  • 洋風建築

    一般住宅 洋風感覚を基調とした快適で瀟洒な近代建築 玄関に入った途端明るさと優雅さをを感じる そんな第一印象なら最高 奥の間への興味と期待感をそそります

  • 西洋館 - Wikipedia

    西洋館 (せいようかん)とは、幕末、明治時代以降に日本で建設された西洋の建築様式を用いた建物のこと。主として住宅を指す。洋館、洋風建築とも。神戸では明治期のものを 異人館 、大正~昭和戦前にかけてのものを 洋館 と呼んで区別している。

  • 財団法人 片倉館 ロマン漂う洋風建築と千人風呂

    ■設立 片倉館は、大正から昭和の初期に日本における輸出総額の約1割が絹製品であった当時、シルクエンペラーと称された片倉財閥により地域住民に厚生と社交の場を供するため昭和3年に竣工され、それを運営する(財)片倉館が昭和4年に設立されました。

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洋風建築

洋風建築 ようふうけんちく
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

幕末から第2次世界大戦までの時期に西洋の建築様式にしたがって日本にたてられた建築を洋風建築という。

日本では幕末以降の近代とよばれる時代にたてられた建築を近代建築と総称しており、ここには洋風建築のほかに和風建築、そして昭和初期からあらわれるモダン・アーキテクチャーもふくまれている。近代建築がこのように包括的にとらえられているように、ひとくちに洋風建築といっても、西洋をまねようとして似ても似つかぬものになってしまったもの、洋風と和風が混在しているもの、西洋建築の基本をしっかりと学習したうえでたてられているものと、多種多様である。

II

文化の移植としての洋風建築

洋風建築の移植の過程は、たんなる輸入としてではなく、日本と西洋という異文化のぶつかり合いとして理解すべきで、それは次のような局面にあらわれる。

1つには建築はうごかないものであるためイメージの伝達に問題が生じる。近世の鎖国の時代には西洋建築は絵画や技術書をとおしてイメージとしてのみつたわった。幕末から明治初期になると写真の導入や海外への旅行を通じて、よりリアルなイメージがえられるようになり、日本国内にも横浜神戸などの開港場を中心に洋風建築がたてられていくが、洋風建築のイメージは大工や施主の移動や旅行を通じての伝達が主で、西洋建築の正確なイメージが日本中に浸透していくのには時間がかかった。

2つ目は洋風建築をたてる必然性の問題で、幕末以降、役所、病院、小学校など日本には存在しなかった新しい用途の建築が開化の象徴としてもとめられていく。さらに、室内で畳にすわるか椅子に腰かけるかという和洋の生活様式の違いがあるため、西洋人のための住宅は洋風でなければならなかった。だがこの洋風建築を実現する担い手は伝統的な建築の体系を身につけた大工であり、彼らの手で、イメージでしかなかった洋風建築を実際のかたちにする作業が各地でおこなわれていった。

3つ目は技術の問題で、西洋の建築は木造だけでなく煉瓦(れんが)、石などでたてられており、材料から構造形式にいたるまで日本の伝統的建築とは大きくことなっていた。したがって西洋の技術が移植されるまでは、日本の在来の技術をベースにして洋風建築がたてられていく。その一方でお雇い外国人など外国人による技術指導もおこなわれるが、体系的な学習の成果があらわれるのは明治20年代をまたなければならなかった。

III

洋風建築の展開1:西洋建築との接触

近代にはいり日本に最初に洋風建築がたてられるのは、幕末から明治初期の工場、住宅においてである。幕末には長崎、横須賀の製鉄所に代表される幕府、雄藩による軍事工場が、明治初期には富岡製糸場(1872年建築。フランス人エドモンド・A.バスチャン設計)などの殖産興業のための工業施設がプラントとして建築ともども輸入されてきた。ここではイギリス人のトマス・J.ウォートルスに代表される外国人技術者の直接の指導により建築がおこなわれた。横浜、神戸、長崎などの外国人居留地では、東南アジアの欧米植民地の様式であるベランダをもつ木造住宅がたてられた。また、1872年(明治5)からはじまった北海道開拓にともない、アメリカから開拓建築が導入され木造下見板(したみいた)張りの洋風建築が根づいていく。

次の段階として、明治初年から明治10年代にかけて、擬洋風建築とよばれる一連の建築が日本各地にたてられる。これは日本の大工が伝統的な技術を駆使して洋風建築をかたちにしたもので、和風と洋風が渾然(こんぜん)一体となった表現をもつにいたったものである。

清水喜助が東京で建設した築地ホテル館(1868。アメリカ人ブリッジェンス設計)、海運橋三井組(1872。のちの第一国立銀行)が初期の代表例で、工部省の林忠恕(ただひろ)の活躍などもあって全国に波及し、松本市の開智学校(1876。立石清重設計)、山形市の済生館病院(1879)などの建築がつくられる。これらは左右対称で中央を入り口とした単純な構成をもつことが多く、屋上に塔をのせることも流行した。

IV

洋風建築の展開2:歴史主義の学習

明治10年代からは、都市を欧米諸国のようにかざるため、政府の主導により本格的な西洋建築の導入がはじまる。19世紀後半のヨーロッパの建築は歴史主義にもとづくもので、過去の古典主義やゴシック(ゴシック・リバイバル)などの建築様式を建物ごとにつかいわけ、ときにはくみあわせてもちいることにより建築がデザインされていた。明治10年代までは、イギリスのシャステル・ド・ボワンビルやイタリアのジャン・G.V.カペレッティらのお雇い外国人建築家により、こうした歴史主義の建築がたてられる。

その中でもっとも大きな影響をのこしたのが鹿鳴館、上野博物館(現、東京国立博物館)などを設計したイギリス人ジョサイア・コンドルで、1877年(明治10)に来日、同年開校した工部大学校で日本人建築家の教育をはじめる。西洋では建築学は美術の一分野としての位置付けが主流であったのに対し、日本では工学の一分野としてまなばれたことが特徴で、建築はひとつの技術として学習され背景の思想はかえりみられなかった。79年(明治12)に辰野金吾片山東熊らが第1回卒業生となり、以降毎年建築家が巣だっていく。建設の担い手である職人と建築家の間をつなぐ中堅技術者を育成する工手学校(現、工学院大学)の設立もあって、明治20年代には本格的な歴史主義の建築が設計から施工まで日本人の手によっておこなわれるようになる。

この後、洋風建築はたてられつづけるが、都市内に連続的な町並みを形成するほどの大量の建設がなされないまま、大正期からはじまる建築の合理化、そして昭和初期からの反歴史主義的なモダン・アーキテクチャーの流れがおこり、第2次世界大戦後には建築の主流は完全にこれらの流れにとってかわられる。一方の住宅においては、畳にすわる習慣が根強くのこり、洋館をたてる場合でも和風住宅に並置し、和洋の生活をうまくつかいわけることで、結局生活様式は完全には洋風化されなかった。

日本美術の「近現代の美術」

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