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平安時代後期にはじまる仏師の一派。定朝の子覚助(かくじょ)の子には院助と頼助がいたが、このうち、院助以下の、名前に院の字がつく一派を院派仏師という。
院派は定朝の正嫡として、定朝のもっとも重要な仕事だった藤原摂関家(→ 摂関政治)の造像をうけついだが、摂関家の弱体化とともに低迷した。院助の子院覚は、鳥羽上皇(→ 鳥羽天皇)の代になって、ようやく院の造像にたずさわるようになった。京都の法金剛院につたわる阿弥陀如来(あみだにょらい)像は、1130年(大治5)に鳥羽上皇の中宮、待賢門院璋子が法金剛院を再興したときに院覚が制作したものとつたえられる。院派は、その後勢力を拡大し、12世紀後半には円派にかわって造仏界を主導した。
院覚の弟子あるいは子である院尊は、1178年(治承2)以前に法印の位につき、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての造仏界でもっとも勢力があった。80年の南都焼討ち後の復興造像では、院派の棟梁(とうりょう)として、奈良仏師の成朝(せいちょう)をおさえて、興福寺講堂阿弥陀三尊像や東大寺大仏の光背を担当したことが知られている。また、京都の宝積寺(ほうしゃくじ)の十一面観音像は、1233年(天福元)に院範(いんぱん)と院雲がつくった像であることや、京都の仁和寺の悉達太子(しったたいし)像は、52年(建長4)に院智がつくった像であることがわかっている。 1249年(建長元)に焼失し、66年(文永3)に完成した京都の蓮華王院(三十三間堂)の再興造像には、湛慶を中心に各派の仏師が参加したが、院派仏師としては院継、院快らの制作した千手観音(せんじゅかんのん)像がふくまれている。さらに現存遺品から、院派は関東地方にも進出し、造像活動をおこなったことが明らかになっている。その後、南北朝期から室町時代にいたっても院派の活動は盛んで、室町幕府や禅宗の造像にたずさわり、独特の癖の強い表現の像が数多く制作された。
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