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項目構成
平安時代にはいると前代にまして阿弥陀信仰が流布する。9世紀に天台僧円仁によって唐より摂取された常行三昧(じょうぎょうざんまい)の行法は、阿弥陀仏の名をとなえながら堂内をまわるもので、比叡山(ひえいざん)延暦寺には3棟の常行堂が建立され、天台宗における浄土教興隆の礎をきずいた。さらに10世紀、市井(しせい)の聖(ひじり)空也が民間に浄土信仰を広め、浄土教美術の発展の下地が準備された。 平安中期になると浄土教美術は飛躍的に発展する。この発展に決定的な影響をおよぼしたのが比叡山横川の僧源信である。985年(寛和元)に彼が撰述した「往生要集」は阿弥陀の姿を観想し、仏の名をとなえることをすすめると同時に、臨終の際に阿弥陀が来迎し、衆生を極楽に往生させる来迎引接の功徳を説いた。また当時の社会は末法思想が急速に広がり、浄土への往生を希求する風潮が醸成されていた。こうして数多くの阿弥陀如来像および阿弥陀堂建築、阿弥陀来迎図が貴顕によってつくられた。 本格的な阿弥陀堂の嚆矢(こうし)は1020年(寛仁4)に藤原道長が建立した法成寺阿弥陀堂(無量寿院)であるが、現存する遺構としては53年(天喜元)に道長の子頼通が建立した平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)をはじめ法界寺阿弥陀堂、白水阿弥陀堂、富貴寺大堂などがある。また、九品思想(くほんしそう:生前の行いにより人間を上・中・下の3種にわけ、そのそれぞれに上・中・下の往生の段階があるとする考え方。これによると、往生には上品上生から下品下生まで9つの段階がある)にもとづく九体阿弥陀仏を安置した九体阿弥陀堂の唯一の遺構として浄瑠璃寺阿弥陀堂がある。こうした建築の多くは、浄土図に描かれた宝池殿を再現した浄土庭園が付随する。 これらの諸堂には本尊として阿弥陀如来像が安置されていたが、なかでも平等院の阿弥陀如来座像は平安時代の大仏師定朝の現存する唯一の作品として貴重で、「尊容満月のごとし」と賞賛される像容は平安時代特有の温雅な作風をしめす。また、法界寺や法金剛院、三千院などの阿弥陀像は、その像容を定朝の阿弥陀にならう。これらの阿弥陀仏は一般に「定朝様」と称される。 この時代、新たに創出された来迎図では、平等院阿弥陀堂の周囲の扉や壁に描かれた九品来迎図をはじめ高野山の阿弥陀聖衆(しょうじゅ)来迎図、鶴林寺(かくりんじ)太子堂仏後壁の九品来迎図があるが、高野山西禅院の阿弥陀浄土図や高野山蓮華三昧院の阿弥陀三尊など伝統的な浄土図も多数制作された。
鎌倉時代になると来迎図のバリエーションもふえ、知恩院本に代表される阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)や禅林寺本で有名な山越(やまごえ)阿弥陀図、さらには二河白道(にかびゃくどう)図などの特殊な来迎図が生まれた。 壮麗な阿弥陀浄土図や来迎図が制作される一方で、「往生要集」にみられる厭離穢土(おんりえど)の思想によって現世の無常が説かれ、救済のない絶望的な六道輪廻の苦しみを図示した六道絵も制作された。六道絵では鎌倉時代制作の聖衆来迎寺本が著名であるが、地獄草紙、餓鬼草紙、病草紙などの平安末期の作品も六道絵の一種と考えられる。その他、釈迦、弥勒、観音、地蔵などの来迎図や、名号(仏・菩薩の名)を中心に描いた光明本尊、冥府(めいふ)にあって死者をさばく10人の王を描いた十王図、浄土祖師像などさまざまな遺品をのこす。
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