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Windows Live® の検索結果 1717~68 近代美術史学の定礎者、古典主義の理論家として知られるドイツの美術史学者。北ドイツの小都市シュテンダールに靴職人の子として生まれる。まずしい生活の中で勉学にはげみ、1740年にハレ大学神学部を卒業する。同期に「美学 aesthetica」の命名者として知られるバウムガルテンがいた。だが、この美学者と美術史学者の間に特別な影響関係はない。最初は家庭教師、ラテン語学校の教師、副校長をつとめたのち、ドレスデン近郊のネートニツのビューナウ伯爵の図書館司書となり、美術や歴史の研究を深めた。 その後ドレスデンにうつるが、そこで執筆され1755年春に出版されたのが「ギリシャ美術模倣論」だった。それまでの文献学的な古代研究に対して、ウィンケルマンは美術作品を「視る」ことのうちにあらわれる「様式」において美術史学を基礎づけようとした。その際、視覚表象を言語へともたらす予審的手続きが「記述」とよばれた方法論である。 ウィンケルマンの古典主義を特徴づけているのは、従来のうつくしい形式の模倣を説くだけの古典主義に対して、うつくしい形式を生みだした精神こそをみならうべきだと説いたことにある。ウィンケルマンはみずから「高貴なる単純と静かなる偉大」とよんだギリシャの美術作品の様式のうちに、上述の精神の表現をみとめたのである。ゲーテやシラーのドイツ古典主義は、その精神を継承するところから展開した。この著作はただちに各国語に翻訳されて大きな反響をよび、古代美術史の研究者ウィンケルマンの名前は一躍知られるようになった。 1755年秋にローマにおもむき、アルバーニ枢機卿の後援によって本格的な古代美術の研究がはじまる。おりしもベズビオ山の火山灰の下からポンペイやヘルクラネウムの古代の遺跡が発掘され、空前の古代史ブームがまきおこったころでもあった。その間、ローマ地方古美術保存委員長、バチカン書記官に任命されている。その研究の成果は64年の「古代美術史」、67年の「未公刊の古代美術作品」となって出版された。「古い様式」「高い様式」「美なる様式」「模倣者の様式」の4段階でとらえられた古代美術の様式展開には、同時代の芸術に対する古典主義者としてのウィンケルマンの批判的なまなざしが重ねあわされている。 ウィンケルマンの美術史家としての名声は揺るぎないものとなり、女帝マリア・テレジアにウィーンの宮廷へまねかれて金銀の記念牌を授与された。その帰途、トリエステで船待ちをしていたとき、宿で午睡中に記念牌を強奪しようとした凶漢アルカンジェリに刺殺され、悲劇的な最期をとげた。
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