Windows Live® の検索結果
Windows Live® の検索結果 奈良県高市郡明日香村にある真言宗豊山派の寺。河原寺とも書き、弘福(ぐふく)寺ともいう。655年(斉明元)に斉明天皇が王宮とした飛鳥(あすか)川原宮を施入(せにゅう:寄付)してはじまったというが、そのあとの天智天皇の勅願とする説もある。1957年(昭和32)からの発掘でも寺院創建前の石敷、溝と整地の痕跡がみとめられ、遺跡のようすも7世紀後半を中心とする白鳳期ごろのものと一致する。 寺院の伽藍配置は川原寺式といわれる。南端に南大門、その北には回廊と僧坊でかこまれた主要伽藍区域がある。区画内の南側には塔と西金堂が東西にならび、その北に回廊と連結された中金堂がある。中金堂の北側の区画は東西に経蔵と鐘楼があり、北奥に僧坊と連結された講堂がある。飛鳥寺式、四天王寺式につぐ配置様式で、左右対称でない点では日本化しているといえる。 673年(天武2)に写経生をあつめて一切経(いっさいきょう)の書写をさせたとの記事が「日本書紀」にあり、このころには官寺としての役割をはたしはじめている。平城遷都(710)前には四大寺にかぞえられて重視された。平城遷都にともなって平城京への本部移転はなされなかったが、奈良時代にも十大寺にはいっていた。「弘福寺田畠流記(るき)帳」(709)によれば、大和、河内、山城、尾張などにあわせて水田158町、陸田49町を所有する大きな寺であった。 平安初期に空海が一時住んだことで東寺の末寺にはいった。鎌倉時代には大火災をうけたが、教弁の尽力で食堂(じきどう)や僧坊の復興がなった。しかし室町末期の火災以降は荒廃し、江戸時代には草堂一宇をのこすだけとなった。 1921年(大正10)に現在の弘福寺境内をふくむ、旧川原寺の寺域中心部分が国の史跡に指定された。重要文化財の木造持国天・多聞天(→ 四天王)の2像を所蔵する。現在、発掘成果にもとづいて往時の伽藍跡がわかるように礎石などが復元整備されている。
© 1993-2009 Microsoft Corporation. All Rights Reserved. |
© 2009 Microsoft
![]() ![]() |