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  • 神功皇后 - Wikipedia

    神功皇后 (じんぐうこうごう、 成務 40年( 170年 ) - 神功 69年 4月17日 ( 269年 6月3日 ))は、 仲哀天皇 の皇后。『紀』では 気長足姫尊 (おきながたらしひめのみこと)・『記』では 息長帯比売命 (おきながたらしひめのみこと)・ 大帯比売命 (おおたら ...

  • 神功皇后って誰?

    神功皇后(じんぐうこうごう) 西暦400年前後に活躍し、別名を息長帯比売(おきながたらしめ:古事記)と言い、

  • 神功皇后

    別称:息長足姫命 (オキナガタラシヒメノミコト) 、息長帯比売命 性別: ♀ 系譜:第十四代 仲哀天皇 の后、 誉田別命 (応神天皇) の母

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神功皇后

神功皇后 じんぐうこうごう
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

古事記」「日本書紀」などにみえる伝説上の人物。気長足姫(おきながたらしひめ:「古事記」では息長帯比売と表記)ともいう。父は気長宿禰王(おきながのすくねおう)、母は葛城高額媛(かずらきのたかぬかひめ)。仲哀天皇の正妻で、応神天皇の母という。

II

神功皇后伝説

記紀によれば、神功皇后は夫にしたがい、熊襲征伐のために筑紫にやってきた。そのとき、アマテラスオオミカミ(天照大神)と住吉三神から神託があり、朝鮮半島に遠征するようにもとめられた。しかし、仲哀天皇はこの神託を信用しなかったために急死した。当時、神功皇后は臨月の身だったが、そのまま朝鮮半島の新羅を攻め、神の助けもあって難なく制圧した。その後、筑紫の宇美(うみ)にもどって誉田別(ほんだわけ)皇子(のちの応神天皇)を生み、皇子をつれて大和に帰還しようとした。しかし、仲哀天皇の遺児である香坂(かごさか)王と忍熊(おしくま)王の抵抗をうけ、これとたたかうが、制圧に成功。幼少の皇子にかわり、摂政として政務を代行した。

III

伝説の意味

こうした話は事実の記録ではないが、この伝記的な記事がどのような意味をもつのか、解釈はわかれる。たとえば、大和政権はそもそも応神天皇を始祖とし、神功皇后伝説は、応神天皇の母からはじまる王朝開闢(かいびゃく)神話としてのまとまりをもつとみる説。また、神功皇后が近江(おうみ)の息長(おきなが)氏と関係が深いので、継体天皇が即位した後で力をもった息長氏が、その祖先伝承を混入させたものともいわれる。

なお「日本書紀」の編者は、神功皇后を「魏志倭人伝」にある卑弥呼と同一人物と考えていたらしい。

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