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  • 古代 - Wikipedia

    古代 (こだい)とは、 歴史 の時代区分(古代・ 中世 ・ 近世 ・ 近代 ・ 現代 )の一つ。普通名詞としては 中世 以前を指すが、定義上は 文明 の登場から 古代文明 の崩壊、 中世 までの時期を指す

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古代

古代 こだい
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

歴史の時代区分で、原始と中世の間に位置する時代をいう。一般には原始時代をふくめて古代とし、中世の前の時代全般を意味する場合もある。

世界史的にみると、原始時代は人類の誕生から階級社会といわれる都市国家的な古代国家の成立期までをいい、古代になると文字や金属器の使用、牧畜、農耕などがみられる(石器時代の「新石器時代」)。

すなわち古代は、生産力の発展によって生みだされた奴隷制社会であり、基本的な生産が奴隷労働力によってになわれている社会をいい、中世は封建社会(封建制)、近代は資本主義社会と特徴づけられる。しかし、こうした歴史の流れは西欧にはあてはまるものの、東欧やアジア、アフリカなど、地域や民族によっては、かならずしもあてはまるわけではない。

古代の四大文明といえば、エジプト文明、パキスタンとインドのインダス文明、中東のメソポタミア文明、中国の黄河・長江文明(黄河文明長江文明)である。それにオルメカマヤなど16世紀以前のアメリカ先住民文化(プレ・コロンビアン美術)は、ギリシャ文明やエーゲ文明といった古代地中海文明に匹敵する文明をもっていたことが知られる。また中東では、ヨルダン川西岸地区のエリコで前8000年にさかのぼる初期農耕集落跡がみつかり、原始から古代への過渡期の遺跡として注目された。

古代がいつおわるかについては、それぞれの地域で解釈がいくつもあるが、ヨーロッパ史では、西ローマ帝国(ローマ史)の崩壊(476年)とされることが多い。インド史ではグプタ朝を古代末期として7世紀のバルダナ朝までを古代とするのが一般的だが、マウリヤ朝のおわる前2世紀とする説などもあり、確定していない。中国史では(後漢)王朝の没落とされるが、魏晋南北朝時代を中世への過渡期としてその末期としたり、王朝の滅亡とすることもある。

II

日本の古代の始まりと終わり

日本の古代は、一般的には大和政権が成立する4世紀半ばから奈良時代平安時代までをいう。しかし、日本史学ではその始まりを律令制による国家が成立する飛鳥時代すなわち7世紀代とすることが多く、考古学では古墳時代の始まりが古代の始まりとされる。また、弥生時代(弥生文化)に古代社会がはじまったとする見方もあり、一様ではない。

古代社会は8世紀の奈良時代に全盛期をむかえ、平安時代の12世紀後半に崩壊して中世的な封建制社会へと移行したとするのが一般的な見方である。しかし、近年の学界では「王朝国家」体制論が登場し、古代から中世への移行を10世紀とする説もでてきている。「王朝国家」体制論とは律令制による支配原則が10世紀初めに放棄され、国司が中央政府から国内の支配をまかされる初期的な封建国家ともいうべき国家体制が出現したとするものである。

III

古代社会と奴隷身分

日本の古代は、階級社会の形成期という点からみれば前4世紀の弥生時代にはじまる。縄文時代(縄文文化)までは支配層のない社会とされ、弥生時代になると墓にも身分差がみられ、「魏志倭人伝」にも大人や下戸という階級が存在して、生口(せいこう:奴隷)の献上や犯罪者の奴婢(ぬひ)への転落などがしるされている。ただ、奴隷身分の存在は明らかだが、そうした奴隷が生産の基本的な担い手であったかどうかは、明瞭ではない。

つづく古墳時代は、4世紀以降の大和政権の時代にほぼ相当する。その政権下では部民制がとられ、多くの農民は豪族たちの私的支配をうけて、彼らに生産物と労働力を提供した。さらにその豪族の私的支配と部民制を否定して、7世紀後半~8世紀初頭にかけて律令制による国家が成立する。律令国家は部民を解放してその大半を公民とし、それまでの私地私民制から公地公民制へと移行させた。全国民を戸籍計帳を通じて個別に把握し、その土地もすべて公有財産とするなど、私的所有をゆるさないことが原則とされた。こうした公民のほかに奴婢も存在したが、その数は5%にみたなかったと推定され、役割としては基本的に家内奴隷にとどまった。班田収授法

このような奴婢たちの生活形態を考えると、この時代の日本が奴隷制社会だったといえなくなるかもしれない。しかし、個別人身支配をうけ、また耕地をたえず班田収授される公民のシステムは、大局的にみれば奴隷制にあたるともいえ、公民を、土地にしばられた奴隷的存在ととらえることは可能である。

IV

古代から中世へ

奈良時代を中心とする戸籍制度・班田収授法は、やがて公民の浮浪、逃亡や国司郡司の偽籍への協力などによって維持できなくなる。律令制の土台となる班田収授制は10世紀初めに停止され、浮浪、逃亡した農民は王臣家や現地有力者のもとにはいりこんだ。小農民や現地有力者(田堵)は、国司や荘園領主との間に請作契約をむすぶようになる。これにより、現地に在地領主制(領主制の「日本の領主制」)の成立する余地が生まれ、その在地領主が大土地所有者である荘園領主や国衙(こくが:国庁)との間にさまざまな関係をとりむすび、支配下にある農民を家や土地と一体につかんだ。

その一方で、在地領主層は社会不安に応じて武装し、武士として中世社会の担い手となり、政治の場面に登場していく。武士たちの台頭を貴族政権からの政権交代の時期ととらえれば、中世の始まりは12世紀後半の平氏政権の誕生や鎌倉幕府の成立期となるが、武士の台頭期を広くとらえ11世紀とすることもある。また在地領主の台頭にあわせて国政が変化して王朝国家体制となる10世紀初頭ということもできるだろう。

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