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遊女屋(→ 遊女)を一定区画内にあつめ、公的に営業をみとめた場所。郭(くるわ。廓とも書く)、色町、遊里、傾城(けいせい)町などともいう。本来、郭は防御のため城の回りにつくられた土塁(どるい)などでかこまれた区域をさし、遊郭の名称も周囲を塀(へい)や溝でかこい、出入り口を1カ所にした造りから生まれたものである。 古代から、特定の場所に遊女があつまることはあったが、統一権力によって強制的に集住させられたのは豊臣秀吉のころからである。遊女や公娼(こうしょう)を1カ所にあつめることで、市中の私娼の取り締まりや治安、風俗統制を容易にするねらいがあった。
秀吉が最初に遊郭をおいたのは、1585年(天正13)大坂で、現在の道頓堀川の北岸、のちに島之内とよばれるあたりだった。その後、道頓堀から17世紀前半に新町へ移転した。当初、この新町遊郭は瓢箪(ひょうたん)町だけだったが、のち散在していた遊郭をあつめ、7町の遊女町で構成された。1702年(元禄15)には、揚屋(あげや)28軒、茶屋(遊女屋)49軒、遊女823人にのぼったという。 京都では、1589年、秀吉によって上京と下京との境目にあたる柳の馬場に遊郭がおかれた。これは俗に二条柳町遊郭とよばれ、のち六条三筋町をへて、1641年(寛永18)朱雀野に移転する。初めは人里はなれた場所にあり、移転の混乱と郭の構成が島原の乱の城下に似ていたことから、やがて島原遊郭とよばれるようになった。 江戸の遊郭は、大坂、京都より少しおくれ、江戸の都市建設の進展にあわせて設置された。1612年(慶長17)に庄司甚右衛門が遊女屋を1カ所にあつめ、遊郭開設を出願、17年(元和3)に許可され、翌年に日本橋葺屋町(ふきやまち)付近に開業したのが、吉原遊郭である。しかし、明暦の大火(1657)で焼失し、浅草の先に移転することになったため、以降は新吉原といい、以前の地を元吉原とよんだ。 新吉原は、江戸の北側にあったため北国、北里ともよばれ、約270軒の遊女屋があった。吉原案内本の「吉原細見」によれば、江戸中期にはおよそ2500人、寛政年間(1789~1801)からは4000~5000人の遊女がいたという。
全国にも港町や河川交通の要衝に公許の遊郭があった。1678年(延宝6)の「色道大鏡」によれば、三都の3遊郭以外にも、伏見の夷(えびす)、大津の馬場町、敦賀(つるが)の六軒町、堺の高洲町、兵庫の磯(いその)町、佐渡の鮎川(相川)、石見(いわみ)の温泉津(ゆのつ)稲荷町、備後(びんご)の鞆有磯(ともありそ)町、下関の稲荷町、長崎の丸山町、肥前の樺島(かばしま)など22の遊郭があったと書かれている。
一般的に、上級遊女は引手(ひきて)茶屋で指名し、交渉が成立すると、揚屋で芸者や幇間(ほうかん:太鼓持ちともいわれる芸人)などをまじえてあそぶ。客によばれて遊女屋から揚屋にむかう道行きが花魁(おいらん)道中であった。はじめが「初会」、2度目が「裏」、3度目の「馴染み」となって、3度目でようやく床入りとなる。 江戸前期には、太夫(たゆう)など最上級の遊女は芸事にすぐれ、教養もあり、武家、公家、上層町人を相手にし、気にいらない客はとらなかった。江戸の高尾太夫、京都の吉野太夫、大坂の夕霧太夫などが有名で、これらの名代は遊郭を代表する遊女にうけつがれた。
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