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15世紀から17世紀初めにかけて、それまでヨーロッパ大陸の沿岸部しか船で移動していなかったヨーロッパの人々が、帆船で大洋をわたり、アジアやアメリカにいたる新航路を開拓して、世界各地に進出していった時代をさして、大航海時代という。欧米においては「地理上の発見の時代」とよばれるが、これは非ヨーロッパ世界の存在を軽視するヨーロッパ中心史観にもとづいた表現であることはいうまでもない。
新航路開拓が盛んになった背景のひとつには、ヨーロッパ諸国が東方世界との直接貿易を強くのぞんでいたことがある。中世には、ベネツィアとジェノバを代表とするイタリア都市の商人が地中海貿易と東方物産取引を独占していた。16世紀にはいると、オスマン帝国が東地中海から中近東にかけての地域を支配するようになった結果、東方貿易もイスラム商人を介さねばならなかった。 他方、15世紀後半からヨーロッパ諸国が中央集権化をおしすすめた結果、重商主義的な経済政策をとるようになったことも重要である。そのために、貿易の振興や海外領土の獲得が国家政策としておこなわれるようになった。さらに中世末には、ポルトラノとよばれる海図(→ 地図の「地図の歴史」)、羅針盤(→ コンパス)、天体観測装置のアストロラーブなどが開発されて航海技術が発達したほか、北欧起源の四角帆と地中海の三角帆(ラテン帆)をあわせもち、遠洋航海が可能なキャラック船やキャラベル船とよばれる新型帆船も登場した(→ 帆船:船舶)。
アフリカ大陸西岸を南下する航路によって、最初に東方への道を切り開いたのはポルトガルであった。ポルトガル王ジョアン1世の息子で「航海王子」とあだ名されたエンリケは、1415年に北アフリカのセウタ攻略に参加し、その後も、アフリカ西岸やマデイラ諸島、アゾレス諸島などの大西洋近海の探検をつづけた。 その後、ジョアン2世の時代には、1488年、バルトロメウ・ディアスがアフリカ南端の喜望峰に到達した。同じころ、ペロ・ダ・コビリャンも王命により、カイロ・紅海経由でインドにいたる道のあることを確認し、さらにアフリカ東岸を現在のモザンビーク付近まで南下して探検した。 これらのアフリカ探検の目的には、インドへの通商路を開拓することとともに、当時アフリカ内陸部に存在すると信じられていた伝説のキリスト教国プレスター・ジョンの王国を発見することがかかげられていた。 つづくマヌエル1世の治世下では、1498年に、バスコ・ダ・ガマのひきいる艦隊が喜望峰をこえてインド西岸のカリカットに到着した。つづいて1500年にインドに派遣されたペドロ・カブラルは、途中ながされてブラジルに漂着し、この地をヨーロッパ人としてははじめて発見することになった。 このカブラルとそれにつづく初代インド副王アルメイダ、2代目副王アルブケルケによりポルトガルのインド進出は軌道にのり、ペルシャ湾からインド洋への出口であるホルムズ、紅海の出口アデン、インド西部のゴア、カリカット、コーチンやセイロン島(現スリランカ)などに勢力を拡大していった。またマレー半島のマラッカ(現ムラカ)も占領・支配し、1512~13年には、香料諸島マルクや中国にまで進出した。インドやマルク諸島からはこばれた香辛料取引によって、この時期のリスボンは世界的な商業中心地として繁栄した。 しかしその後、ポルトガルの国家財政悪化の結果、16世紀後半には、ポルトガルの海外活動はゴアを中心としたイスラム商人との取り引きに縮小していった反面、イエズス会による布教活動が東アジア各地で展開されたのとむすびついて、極東にまで進出した。 1557年には、マカオに拠点をおくことが明朝からゆるされた。中国船にのったポルトガル人が鉄砲とともに日本の種子島に漂着したのは、43年のことである(→ 鉄砲伝来)。イエズス会士フランシスコ・ザビエルが日本をおとずれたのは、49~51年のことであり、この時代には、九州各地にポルトガル船が来航している。
このようにインドを拠点としたポルトガルに対して、大西洋を西にすすむ道をえらんだのはスペインである。1492年まで対イスラム戦争に拘束されていたスペインでは、同年のグラナダ陥落の直後から、カスティリャ女王イサベル1世とアラゴン国王フェルナンド5世がジェノバ人コロンブスの大西洋西進の企てを支援し、アメリカ到達を実現させた。 マルコ・ポーロの「東方見聞録」などからえた情報にもとづき、地球を西回りに航海すればインドやアジアに到達できると考えたコロンブスは、前後4回にわたって遠征をおこなったが、自分の発見した土地をあくまでインドであると考えていたらしい。 1492年から96年にかけての2度にわたる遠征のときにコロンブスが到着したバハマ諸島、キューバ、イスパニョーラ島と命名したハイチ、小アンティル諸島などのカリブ海の島々が、西インド諸島とよばれるのは、コロンブスの誤解に由来しているわけである。第3次航海では、98年に現ベネズエラのオリノコ川河口地域に上陸し、1502~04年の第4次航海では、中米の沿岸部を航海してさらに西へむかう海路を探検している。 しかしその後、ポルトガル王マヌエル1世によって派遣されたアメリゴ・ベスプッチは、1501~02年に南アメリカ大陸の北岸から東岸を探検して、それがインドではない未知の大陸であることを明らかにした。07年には、ドイツの地理学者ワルトゼーミュラーが、この新大陸に関する著作につけた地図の中で、南アメリカ大陸の部分に、アメリゴの名前からとったアメリカという名称をしるしている。また13年には、スペイン人バルボアは、パナマ地峡(→ パナマ運河)を横断してはじめて太平洋に到達した。 このころにはスペインは、西回りの航路でマルク諸島に到達することを構想するようになった。1519年にスペイン国王カルロス1世(カール5世)の命をうけて、ポルトガル人マゼランが20年にアメリカ大陸の南端に近いビルヘネス岬からはいって太平洋に出(マゼラン海峡)、21年にはフィリピン諸島とマルク諸島に到達した。マゼラン自身はフィリピン諸島のセブ島で先住民とたたかって戦死したものの、その艦隊は22年にスペインに帰港し、史上初の世界周航をなしとげた。 スペインは、発見したアメリカ大陸の征服にものりだし、1521年には、コルテスがメキシコのアステカ王国を、33年には、ピサロが南米インカ帝国をせめほろぼした。
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