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    染織 (せんしょく)とは、 布 を「 染める 」ことと「 織る 」ことの総称である。「 染物 (そめもの)」「 織物 (おりもの)」と両者を区別することが出来る。しかし、布は何らかの 繊維 を織らなくては存在し得ないので、「織物」の「織る」という過程 ...

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染織

染織 せんしょく
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

織と染の技術、あるいは製作された織物と染物の総称。織られた布帛(ふはく)とその上に文様を表現するための二次的な技法までが包括され、染色だけでなく刺繍、切付(アップリケ)、印金、摺箔(すりはく)、編物、レース、組紐(くみひも)、フェルトなどもふくまれる。英語では「織物」を意味するテキスタイル(textile)の語がつかわれるが、日本では「染」の比重が西洋や中国とくらべてはるかに高いため「染織」と表記される。

II

中国文化の強い影響

わが国の染織の基礎は、など中国文化の強い影響のもとにきずかれた。とくに飛鳥、奈良時代には、錦や綾(あや)など織物の技法や意匠、纐纈(こうけち)、夾纈(きょうけち)、臈纈(ろうけち)とよばれる染色技法や文様、冠位十二階に代表される服制や礼服、朝服などの服飾形式の基本、繍仏(ぬいぼとけ:刺繍などで描いた仏像)などの手法や意匠といった染織文化の根幹が成立した。しかし、遣唐使が廃止された9世紀以降は、技術の国産化とともに染織の意匠や服飾形式における和様化がいちじるしく進行し、襲色目をはじめとするわが国独自の染織文化が形成された。

III

各地に特産品が誕生

鎌倉時代になると農業技術の発達により、苧(からむし)、などの繊維植物や染料植物の栽培が盛んになる。また、の増産は養蚕を活性化し、絹織物の発達を促進した。さらに、平安時代までの官営工房が廃絶されたり、経済機構の変化によって、染色技術者が紺屋などの職人として独立するようになり、藍染を中心に民間への普及が進行した。その傾向は室町時代になってさらにすすみ、京都の染織品にくわえて、加賀絹、丹後精好(せいごう:仙台平)、美濃上品、尾張八丈、信濃布、常陸紬()などの織物、加賀の梅染、遠江(とおとうみ)の茜染、播磨の搗染(かちぞめ)など、さまざまな地方の特産品が登場する。その後、応仁の乱によって京都は壊滅的な打撃をうけたが、15世紀末から16世紀初頭にかけて西陣で機業が再開され、近世の多様な染織の基礎がきずかれた。との勘合貿易の中心となった堺(堺市)には金襴(きんらん)、緞子(どんす)、綸子(りんず)、縮緬などの織物が輸入され、近世初期には西陣にもそれらの技術が伝播(でんぱ)したと考えられている。

IV

染めと独自の意匠の発展

衣服形式においては、中世の武家の服飾様式の発達と小袖(こそで)形式の衣服の表着(うわぎ)化にともなって、染織における染の役割はさらに重要なものとなっていった。絞染を中心とした辻が花や縫箔(ぬいはく)の盛行はその典型といえる。また、15世紀に朝鮮からつたわり、高級品として珍重された木綿の国産化は、浴衣用の染である中形の発達とともに、近世の庶民衣料に大きな影響をあたえることとなった。さらに江戸時代には友禅染をはじめとする数々の新しい染色が誕生し、今日の着物に通じる独自の装飾様式が確立された。武家のの装飾技法として発達した型染小紋も、江戸後期には江戸の「いき」を代表する染として、町人の服飾に大きな位置を占めた。

明治になると合成染料やジャカード織機など、西洋の先進的な織物技術の導入が積極的におこなわれ、短期間に高度な技術水準に達する。その反面、中世以降「染」が「織」をリードするかたちで発展してきた日本の伝統的な染織文化は、その独自性をうしなうこととなった。

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