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Windows Live® の検索結果 東ゲルマン諸族に属し、スカンディナビア起源と推定される部族。紀元後1世紀ごろに、オーデル川とビスワ川の間の地域に移動し、3世紀にはライン川東岸にいたり、ローマ帝国と接触するようになった。→ ゲルマン人 406年、バンダル族、スエビ族などとともに、現在のマインツ付近でライン川をわたって、ローマ帝国領内に侵入した。413年にはローマと同盟関係にはいり、帝国領内に定住する一方で、アリウス派キリスト教を信仰するようになった。436年、フン族を援軍とした西ローマの将軍アエティウスによって、壊滅的な敗北をこうむったが、生きのこった者はさらに南の地域にうつった。この時のエピソードは、中世ドイツの叙事詩「ニーベルンゲンの歌」の素材となっている。 443年、ブルグント族はふたたびローマ帝国と同盟の取り決めをかわし、現在のスイス西部からサボア地方北部にかけての地域にブルグント王国を建国し、ジュネーブを首都とした。そしてカタラウヌムの戦などでローマ軍を援助する一方で、ローヌ川、ソーヌ川にそって南北に勢力を拡大し、5世紀終わりにはリヨンを首都とするにいたった。このころのグンドバード王(在位480年頃~516年)の治世が最盛期であり、息子シギスムントと東ゴート国王テオドリックの娘との結婚、ならびに姪(めい)クロティルドとメロビング朝フランク国王クロービスとの結婚によって、両者との提携をはかるとともに、507年、フランク王国がブイエの戦で南フランスの西ゴート王国を打倒するのに協力した。→ ゴート族 また、グンドバード王は、その名前をとって「グンドバーダ法典」ともよばれるブルグント部族法典をラテン語で編纂させたことでもよく知られている。リヨン地方では、9世紀半ばまでこの法典がもちいられつづけたといわれる。この法典で、ブルグント人とローマ人は法的に平等であることが規定され、両者の共存がめざされているように、ブルグント王国では、ローマ文明は尊重され、ゲルマンとローマの二元的社会が成立していた。ローマ式の行政機構が維持され、ブルグント人に広まっていたアリウス派に対してローマ人のカトリック信仰もみとめられていた反面、軍事的権限はブルグント人が掌握していた。 ブルグント王国をほろぼしたのは、東方への勢力拡大をめざすフランク王国であり、534年、最後の国王グンディマルが、クロタール1世らのメロビング朝フランク王国軍に敗北して、王国は滅亡し、フランク王国に併合された。しかし、その後も旧ブルグント王国の地域的一体性は維持され、アウストラシア、ネウストリアとともに、ブルグンディアという第3番目の分王国として、メロビング朝フランク王国を構成するようになった。さらに、ブルグントの名前は、ブルゴーニュというフランスの地方名としてのこり、15世紀には、クロービスの後継者をもって任じるフランス王権に対抗したブルゴーニュ公国の政治的独立の歴史的根拠として、ブルグント王国の存在が取りざたされることにもなった。→ バロワ朝
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