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神道において、神霊のやどる神聖な物体のことを神体とよぶ。御霊代(みたましろ)などとよばれることもある。依代もまた、神霊のやどる物体だが、神体が恒久的なものであるのに対し、依代は一時的なものである。 神体となる物体にはさまざまなものがあるが、古代においては、自然の石や岩、樹木、あるいは山などが神体とされた。今日でも、奈良の大神神社では、神体のあるべき本殿は存在せず、拝殿の奥にある三輪山が神体とされている。また古代には、とくに神体をおかず、神事がおこなわれるたびに依代に神をおろすものもあった。臨時の祭場をもうけておこなわれる今日の地鎮祭は、神体がなく依代に神をおろす点で、古代の神事の形式をうけついでいるとみることもできる。 のちには、記紀神話の影響で、三種の神器の中にふくまれる鏡、剣、玉が神体とされることが多くなった。とくに鏡は、近代にはいって神体の代表とされるようになった。民間信仰では、かまど(竈)の神の神体が釜、穀物の神の神体が稲穂とされることがある。
神体はあくまで神のやどる物体であり、神そのものとはみなされていない。神は姿形をもたいない存在であり、もともとはその姿を描いたり像にしたりすることはなかった。ところが、仏教が日本につたえられ、仏画や仏像が広まることによって、その影響で神の絵が描かれ、神像がつくられるようになっていった。 神体はきわめて神聖なものであるとされ、一般の人間がみることをゆるされない場合が多い。日本の近代合理主義の先駆けとなった福沢諭吉は、その自伝「福翁自伝」の中で、子供のころに、神罰があたらないことを証明するために、隣家の稲荷の社を開け、神体としてまつられていた木の札をすててしまったところ、その家で初午(はつうま)の行事をしているのをみておかしく思ったことを回想している。
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