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日本で最初の官立美術学校。明治維新後、新政府は近代化を推進するために、欧米諸国から近代的な生産技術や知識を迅速にとりいれる必要にせまられていた。そのため、政府は「お雇い外国人」を招聘(しょうへい)し、その数は1874年(明治7)には500人をこえていたという。美術についても、欧米風の美術教育と技術の必要性がみとめられ、75年工部省に美術学校を創設することが決定、画学、造家(建築、建築装飾)、彫像の3科に外国人教師をまねくことが許可された。しかし、工業を勧奨し発展させることを目的とした工部省の付属であるということは、開校の目的が政府の殖産興業政策(→ 殖産興業)とむすびついたものであったことをものがたっている。
イタリア公使の強いはたらきかけにより、美術関係の外国人教師はイタリアから採用することが決定する。1876年8月、画家アントニオ・フォンタネージ、彫刻家ビンチェンツォ・ラグーザ、建築家ジョバンニ・ビンチェンツォ・カペレッティが来日し、同年11月東京虎ノ門の工部省工学寮敷地内に美術学校が開校した。入学した生徒の中には、山本芳翠、五姓田義松、浅井忠、小山正太郎、松岡寿(ひさし)など、のちに明治洋画界の中心となる画家たちの姿があった。美術学校での教育は、たとえばその中心であったフォンタネージを例にみると、洋画の基礎教育から油彩画まで、一貫したカリキュラムにのっとったものだった。殖産興業政策を色こく反映して設立された美術学校ではあったが、外国人教師たちの手によって、19世紀後半のヨーロッパのアカデミックな美術教育が導入される結果となった。
1878年、西南戦争後の政府の財政難のため理想とする美術教育が不可能になったとしてフォンタネージが教師を辞任、彼自身の病気もあってイタリアに帰国する。同年10月フェレッティが着任するが、11月には彼の画技に不満をもった小山、浅井、松岡など11名がつれだって退学、「十一会」を結成するという事件がおきた。80年にフェレッティが解任されると、新たにサン・ジョバンニが着任。82年には彫刻学の生徒20名の卒業・修業とともにラグーザが解任されて帰国している。 1883年1月工部美術学校は廃校となるが、その理由としてはフォンタネージの辞任のきっかけともなった財政難と、この時期の国粋主義の影響などが考えられる。その後、政府による美術教育は89年の東京美術学校(現、東京芸術大学)開校(設置は1887年)までまたねばならなかったが、同校の開校後もしばらくは洋風の美術教育はなされなかった。
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