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古墳の代表的な形態のひとつ。円墳に台形または長方形の墳丘を連接させた形をし、民間では古来、その形から瓢箪山(ひょうたんやま)、瓢塚(ひさごづか)、二子塚(ふたごづか)、茶臼山(ちゃうすやま)、銚子塚(ちょうしづか)などとよばれてきた。 3世紀前半に出現し、6世紀後半まで岩手県から鹿児島県までの日本各地で築造された墳墓で、日本の初期古墳の大部分が、また墳長が190mをこえるようなとくに大規模な古墳のすべてが前方後円墳である。該当する時期が大和政権の進展と重なっているため、大和政権の支配地域と密接な関係があるとされ、被葬者は大王(→ 天皇)や、その勢力下にあった各地の首長層と考えられている。最古の前方後円墳は奈良県桜井市のホケノ山古墳とされており、死者をほうむった木棺の放射性炭素(C14)年代測定法(→年代測定法の「炭素14法」)などにより、3世紀前半の築造とされる。2001年(平成13)には、同市の纏向遺跡にあって前方後円形の墳丘をもつ勝山古墳が、その周濠から発見されたヒノキ材の年輪年代測定(→年代測定法の「年輪年代法」)によって「紀元199年+12年以内」という結果がえられ、3世紀前半、場合によっては3世紀はじめの築造すら考えられるとして注目された。これらの年代は卑弥呼の時代にあたり、邪馬台国論争のうえからも注目されている。 「前方後円」の名称の由来は、江戸後期の思想家蒲生君平が「山陵志」(1808)の中で、円丘を車体に、方丘を車体をひく轅(ながえ)にみたてたことによる。明治期に入り、考古学界でも用語として前方後円墳を使用しはじめ、方丘部を前方、円丘部を後方とよぶようになるが、古墳築造時にそのような「前後」の認識があったかは不明である。
大型の前方後円墳では、前方部と後円部の間のくびれ部に、造り出し部とよばれる方形部が片側ないし両側につくこともある。墳丘は自然地形の削り出しと盛土でつみあげ、大型の場合は2~3段に築造している。 前期古墳は尾根上や丘陵先端部につくられ、前方部が低平で長方形になっている。中期になると前方部が台形状になり、高さもまして後円部と同じくらいの大きさになる。平地や台地上に築造され、周囲に空濠(からぼり)や濠をめぐらすものもみられる。この時期が古墳築造の最盛期で、全国の大型古墳はほとんど中期につくられたものである。後期になると前方部の幅が広がり、後円部直径よりも大きくなるが、古墳全体の規模は縮小する。
埋葬部はふつう後円部墳頂付近につくられる。前期の前方後円墳では33面の三角縁神獣鏡を出土した黒塚古墳(奈良県天理市)のように竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)がつくられ、長大な木棺内に鏡、剣、刀、玉類などが副葬されている。後期には墳丘裾部(すそぶ)に横穴式石室がもうけられるが、これが墳墓規模の縮小に影響したのではないかと考えられている。 墳丘には葺石(ふきいし)がおかれ、円筒埴輪をはじめ各種の埴輪がすえられていた。前方部の墳頂上に方形祭壇をもうけ、特殊な埴輪類をならべた例もあり、これが前方部の性格を意味しているとみる説もある。
前方後円墳の起源については、蒲生説のような器物模倣説、丘陵先端の一部切断説、円墳方墳結合説、中国墓制伝来説など、さまざまに提唱されている。近年、弥生墓制の研究がすすみ、前方後円型、前方後方型の弥生時代の墳丘墓が各地で発見されるにしたがい、弥生墳丘墓から進化したとの説が有力となっている。
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