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  • 長江文明 - Wikipedia

    長江文明 (ちょうこうぶんめい)とは 中国 長江 流域で起こった古代文明の総称。 黄河文明 と共に中国文明の代表とされる。文明の時期として紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃までが範囲に入る [1] 。後の 楚 ・ 呉 ・ 越 などの祖になっていると考えられる ...

  • 黄河文明・長江文明 - Wikibooks

    [編集] 黄河文明 中国は最も早く文明の現れた地域の一つで、その年代は大体今から7000年前くらいまで遡ると考えられています。

  • 長江文明:中国まるごと百科事典

    中国文化:風水や東洋思想、伝統技術や伝統工芸など中国の文化がまるごとわかる!

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長江文明

長江文明 ちょうこうぶんめい
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

これまで黄河文明は中国古代文明の代名詞とされてきたが、近年の中国考古学の成果は黄河流域以外の地域にも存在した多様な地方文化の実態を明らかにし、中国文明の起源を一元的にみなしてきた旧来の解釈はすでに過去のものとなっている。

II

中国文化多元論と文明

中国における新石器時代(石器時代)の文化的多様性が注目されるようになったのは、1980年代からである。新石器文化の系統に関して、中原(ちゅうげん)を中心とする華北系統、長江中・下流域を中心とする東南系統、遼河を中心とする東北系統の3系統に区分する学説が有力であるが、さらに細かく分類する学説もある。

しかしいずれの分類にせよ、新石器文化の地域性を重視する見方はすでに学界共通の認識になっている。したがってその中からどのようにして文明が形成されてくるのかが、今問われている。

III

長江流域の新石器文化

長江流域にも古代文明が存在したのではないかと主張されるようになった背景としては、この地域で発見されている炭化米や水田跡、城壁でかこまれた集落遺跡、三星堆遺跡から出土した独特の青銅器文化などの発見があげられる。

すなわち1970年代に長江下流の浙江省ユーヤオ県(余姚県:よようけん)の河姆渡遺跡から出土した大量の炭化した籾(もみ)は、約7000年前(前5000年以前)のものとして有名であるが、しかしそのころ稲作の起源地は中国南西部の雲南地方からインド北東部のアッサム地方にかけてとする学説が有力だった。

これに対して現在では遺伝子レベルの研究がすすみ、栽培稲作の起源地を長江中・下流域とする学説が有力になっている。1992年に江蘇省の草鞋山遺跡から発見された馬家浜文化(ばかひんぶんか)の水田跡は、約6000年前のもので、今のところ世界最古の水田跡である。ただしこの水田跡は比高差1~2mの低地部に列状にいとなまれたもので、面的水田が出現する前段階のものとみなされている。実際同地では、この馬家浜文化の水田跡の上層に春秋戦国時代の面的水田跡が確認されているので、こうした原始水田がのちに面的なものに発展することと、その後に出現する城壁でかこまれた集落遺跡とのかかわりが注目される。

前3千年紀になると長江中流域に城壁でかこまれた集落遺跡が出現し、その最大のものは湖北省ティエンメン市(天門市)の石家河遺跡(せっかがいせき)で、約1300 × 1100mの隅丸長方形である。こうした遺跡は全部で7カ所発見されており、萌芽(ほうが)的な都市とみなされている。

長江下流にはこうした城壁でかこまれた集落遺跡はまだ確認されていないが、大規模な複合集落がみとめられ、すでに階層的な社会秩序が形成されていたことは、良渚文化の儀礼的玉器やそれを副葬した墳丘墓などから想定されている。

長江上流域では新石器時代の城壁でかこまれた集落遺跡の存在はこれまで知られていなかったが、最近ようやく成都平原において5カ所のそうした遺跡が確認されるようになり、すでにそのうちの2カ所の発掘調査が本格的にすすめられている。その1つのシンチン県(新津県)で発見された宝遺跡(ほうとんいせき)は、約1000 × 600mで、初歩的な調査では中原の竜山文化とほぼ同時期のものとみなされており、他のものもほぼ同時代と推定されている。

IV

三星堆遺跡と蜀国

長江流域はこうした新石器文化を基礎にして文明段階に入り、やがて下流域の、中流域の、上流域の巴(は)、蜀(しょく)が登場してくるが、しかし新石器時代から時代までのそれら諸国の形成過程については、まだほとんどわかっていない。

その意味で近年四川省コワンハン市(広漢市)で発見された三星堆遺跡は、長江上流の蜀国の初期の姿をしめすものとして注目される。その遺跡は目のつきでた特異な仮面をふくむ大量の青銅器を出土したことで知られるが、そのすぐ南東で南壁が確認され、すでに確認されていた東と西の壁とあわせて約1600~2100 × 2000mの城壁が確認されており、それは殷代早期の蜀国の都城とみなされている。

長江流域に興亡したこれらの諸国は、「史記」などの文献史料をみるかぎり、その具体的な活動がわかるようになるのは春秋時代以後である。すると黄河流域に継起的に出現する、殷、周(西周)などの中原諸王朝とこれら長江流域の諸国の関係はどうだったのか。それを明らかにするにはまだ史料的に限界があるとしても、旧来の黄河文明論を反転させたかたちで長江文明論を提唱するのは不毛である。むしろ相互の諸関係を通じて中国古代文化の多元性を明らかにすることにより、はじめて長江流域の固有の文明の姿が浮上してくると思われる。

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