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Windows Live® の検索結果 1899~1919 洋画家。福島県に生まれる。1908年(明治41)、先に上京していた家族がすむ東京深川の棟割長屋にうつる。小学校では伊東深水と親交、12年(大正元)小学校を卒業すると、深水の紹介で印刷会社の図案部につとめ、夜は中学校の夜間部に通学した。13年、深水の勧めで日本画を描きはじめ、同年の第13回巽画会(たつみがかい)展に日本画「女の児」を出品して初入選。一方、同じ職場につとめる洋画家におしえられた、ヨーロッパの美術、オスカー・ワイルドやニーチェの思想、世紀末の退廃的な芸術家像などに強い影響をうけ、洋画をまなびはじめた。 同じく1913年、友人と山梨、長野、新潟に無銭旅行に出かけたおり、当時18歳だった河野通勢(こうのみちせい)と長野で知りあい、彼のもとでルネサンス期の画家たちの画集をみせられて感銘をうける。帰京後、古典絵画の影響から独自の硬質な線による素描を多作するようになり、しだいに写実的な描写から内面的な深みをくわえた表現へとうつっていった。15年には第2回二科展(→ 二科会)に油彩画「死を思ふ日」を出品して入選するが、このとき同じ会場に特別陳列されていた安井曽太郎のピサロやセザンヌの作風を反映した滞欧作品に接し、色彩の価値を知るようになった。18年、作家久米正雄の援助で持病の蓄膿症(→ 副鼻腔炎)を手術したが、術後の経過が悪く、失恋の痛手もあって神経衰弱となり、一時は発狂したと噂(うわさ)される。 また1918年には、保養のためおもむいた銚子で幻想性と宗教的色彩のこい「信仰の悲しみ」を制作、この年の第5回二科展に出品して樗牛(ちょぎゅう)賞を受賞した。その後、スペイン風邪(→ インフルエンザ)にかかり、さらに翌年には肺結核におかされるが、病床につきながらも筆をとり、油彩画「子供」「三星(さんせい)」など鋭利な感覚と凝縮した情念がこめられた作品を描いた。同年「慰められつつ悩む」を完成、母にたすけられながら署名をこころみたが、それは果たせずに20歳2カ月の若さで没した。やはり夭折(ようせつ)した村山槐多の作品同様、関根の作品には大正期の洋画の若々しい個性が息づいている。
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