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1942~ 日本の政治家。首相、在任2001年4月~06年9月。神奈川県横須賀市に生まれる。祖父、父につづく政治家一族の3代目。祖父の小泉又次郎は、とび職から政治記者などをへて衆議院議員になったという異色の人物。昭和初期の浜口雄幸内閣、第2次若槻礼次郎内閣で逓信相をつとめ、刺青のある大臣として知られた。その婿養子となった父の小泉純也は、第3次池田勇人改造内閣で防衛庁長官をつとめている。
県立横須賀高校をへて慶応義塾大学経済学部にすすんだ。1967年(昭和42)に同大学を卒業し、その後ロンドン大学に留学。高校時代から外交官になるのが夢で、政治家にはなるまいと思っていたが、大学在学中に父の選挙を手つだう中で政治に関心をもつようになった。浪人時代にのめりこんだスキーは、かなりの腕前とつたえられる。 留学中の1969年に父が癌(がん)で急逝したため1年で帰国、27歳で衆院選に立候補したが落選した。当時大蔵大臣であった福田赳夫元首相の秘書をつとめ、72年の衆院選に30歳で当選した。以来12期連続当選(現在の選挙区は、横須賀市、三浦市の神奈川11区)。36歳のとき結婚したが、4年後に協議離婚、長男と2男をひきとってそだて、以来独身である。
大蔵政務次官(1979)、衆院大蔵委員長(1986)をつとめて、1988年に竹下登改造内閣で厚生大臣として初入閣、89年(平成元)の宇野宗佑内閣でも再任された。92年の宮沢喜一改造内閣では郵政大臣をつとめ、郵政民営化を主張して物議をかもした。95年の自由民主党総裁選に立候補し、橋本龍太郎にやぶれたが、96年の第2次橋本内閣で厚生大臣、翌97年の第2次橋本改造内閣でも留任した。98年に三塚派会長代行に就任して総裁選に2度目の立候補をしたが、小渕恵三にやぶれた。大臣などを歴任している割には自民党内での役職は筆頭副幹事長をつとめたぐらいで、三役にはついていない。派閥的には、旧福田派の流れをくむ旧三塚派、森派に属してきた。 2000年4月の小渕首相の急逝で森喜朗が首相になると、森派の会長に就任、森首相をささえた。森退任表明をうけた01年4月の自民党総裁選では、派閥を離脱して立候補、「自民党を変え、日本を変える」と自民党の解党的出直しをうったえて党員による予備選挙で圧倒的支持をえ、第20代自民党総裁に選出された。つづく国会の首班指名選挙でも多数を獲得して第87代首相(戦後27人目)に選出された。1990年代に加藤紘一元自民党幹事長、山崎拓幹事長(当時)とくんで「YKKトリオ」とよばれ、旧竹下派の自民党支配に対抗してきたが、2001年の総裁選で、悲願成就した。
1998年の総裁選立候補者を田中真紀子が評した際、小泉を「変人」(みずからはこれをさらにもじって「変革の人」と称している)と形容したように、自民党内では「一匹狼(おおかみ)」とみられて異端児視されてきたが、2000年11~12月にかけての加藤・山崎反乱では、森首相を最後まで擁護するなど、たんなる一匹狼ではない政治家としての資質もみせた。 一方で、首相公選制はともかく、自衛隊は軍隊であるとして憲法第9条をふくむ改憲を持論とし、集団的自衛権行使の容認、靖国神社の公式参拝など、政治的スタンスはかなり保守的でもある。血縁ではないが縁戚関係(えんせきかんけい)にありしたしくもある石原慎太郎東京都知事と共通する点が多い。 音楽や映画、歌舞伎(かぶき)やオペラなどをたのしむ趣味人としても知られ、プライベートな時間を大切にする孤独を愛する孤高の人との評価もある。「一言居士(いちげんこじ)」ともいわれるが、もってまわった言い方でなく、思いをストレートに表現する仕方はきわめてテレビ的である。じゅうぶんな説明をすることなく政策をスローガン的にうちだすことに対し、ワンフレーズ・ポリティクスと揶揄(やゆ)する向きもあるが、歯に衣(きぬ)を着せない大胆な発言で国民的支持をあつめ、その力で自民党をかえようとする戦略は明確であった。
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