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プロローグ; ビンラーディン一族とウサマの生い立ち; アフガニスタン入りとタリバーンとの関係; ウサマ・ビンラーディンの思想; アルカーイダの創設と国際テロ; アメリカ同時多発テロとの関係; 生存か?
1957または58~ サウジアラビアの大富豪家の出身で、イスラム原理主義の過激派組織「アルカーイダ」の主宰者。オサマ・ビンラディン(Osama Bin Laden)とも表記される。2001年9月11日におきたアメリカ同時多発テロの首謀者として、アメリカ軍などから追及をうけているが、行方は定かでない。
ウサマ・ビンラーディンは、1957年(58年とも)にサウジアラビアのリヤドで生まれた。父親は、イエメンから移住した土建業者で、ウサマは52人兄弟の17番目といわれる。一家は60年代にサウジアラビア西部のヒジャーズにひっこし、のちにメディナにおちついた。70年代の石油ブームによってビンラーディン家の事業は発展をとげ、サウジ王室とのコネクションもえて、中東で最大規模のゼネコン会社「ビンラーディン・コーポレーション」をきずいた。 ウサマは父のあとをつぐことになっており、ジッダの高校を出たあと、サウジアラビアの名門キングズ・アブドゥル・アジズ大学で経営学と経済学をまなんだ。1970年代初めまでは、他のサウジアラビアの裕福な若者とかわらず、ベイルートに滞在したりして、プレイボーイとして名をなしていたらしい。しかし16歳のころから、徐々にイスラム原理主義に傾倒するようになっていったといわれる。
1979年にソ連によるアフガニスタン侵攻がはじまると、イスラム聖戦士(ムジャヒディン)としてアフガニスタンに入った。そして、アラブ人義勇兵の受け入れ組織「奉仕者の家」を主催していたヨルダン系のイスラム法学者アブドラ・アザムにあい、その影響をうけて、みずから義勇兵斡旋組織(あっせんそしき)「聖戦と救済」を創設して、そのスポンサーとなった。当初は建設のプロとして、やがて野戦司令官として活躍した。 1989年に対ソ戦が終結すると、サウジアラビアに帰国したが、90年の湾岸危機勃発(ぼっぱつ:→ 湾岸戦争)でサウジアラビアがアメリカ軍の駐留をみとめたことを批判して、91年にスーダンで活動を開始した。スーダンでは建設土木工事、銀行経営等で手腕を発揮するとともに、スーダンとアフガニスタンにテロリスト訓練施設をつくり、中東、ヨーロッパ、アメリカにネットワークをきずきあげた。 ウサマはサウジアラビア王室に対する革命運動も手がけたため、1994年にビンラーディン本家から絶縁を宣言され、サウジアラビアから国籍も剥奪(はくだつ)された。同年、アフガニスタンでタリバーンが旗揚げすると、ウサマはタリバーンとの関係を深めていった。 1996年にスーダンからも追放され、アフガニスタンのジャララバード近郊にうつり、タリバーンの食客として庇護(ひご)をうけた。しかしほどなく、極端なイスラム化政策で国際的に孤立したタリバーンは、ウサマのもつ資金力をあてにするようになり、逆にウサマにのっとられる状態となった。
ウサマ・ビンラーディンの思想は、イスラム原理主義とよばれる思想の系譜につらなっている。イスラム原理主義とは、イスラムのみを規範として他の世俗的なものを排除し、アッラーの支配を確立するイスラム復古思想だが、とくにウサマの場合、母国のサウジアラビアとの関係で考えなければならない。 サウジアラビアは、イスラム教の聖地メッカの守護者であり、基本的にはイスラム国家である。しかしウサマにとってサウジアラビア王家は、欧米化にはしり、もはやイスラムの守護者としての正統性をもたない存在であった。この不信が決定的になったのは、1990年の湾岸危機でサウジアラビアが異教徒のアメリカ軍の駐留をみとめた時であった。 これは同時に、イスラムの土地をよごしているアメリカへの憎しみにつながった。ウサマにとってアッラーの支配を確立するということは、すなわちイスラムの敵とみなすアメリカとの戦いを意味したのである。
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