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生物進化に関する理論。進化論には、進化の実在を主張する理論と、進化のメカニズムを説明する理論という2つの意味がある。前者は、キリスト教原理主義者が、生物は神によってつくられたとする聖書の記述を信じて、創造説をとなえるのに対比していわれるもので、歴史にあたえた進化論の影響もこの意味においてである。進化の事実は、化石および地質時代の記録、現在の生物の地理的分布と各地域の生物相、および分子進化学(→ 進化生物学)的な証拠によって、科学的には疑いの余地なく確立されているが、アメリカ合衆国などでは現在も創造説を信じる人が多く、教育の現場を中心に論争がつづいている。→ スコープス裁判 進化のメカニズムとしての進化論の歴史については、チャールズ・ダーウィン以前と、ダーウィン=ウォーレスの進化論、進化の総合説、および現在の進化論の順で、以下に概説する。なお、本来的な意味の進化論には、生命の起源もふくめられるべきだが、ここではあつかわない。
進化とは、生物が時間とともに変化して、ことなった種類の生物になることである。生物が変化するという漠然とした認識は、古代ギリシャの自然哲学や東洋の輪廻転生的な自然観にもうかがうことができるが、歴史的な過程として、進化の認識が成立するのは、18世紀以後のことである。地質学が地球の変化を明らかにし、古生物学がことなった地層からことなった化石をみつけだし、比較解剖学が生物の構造には種をこえた共通性があることをしめし、発生学が卵から複雑な器官が形成される過程を、生物地理学が世界各地の生物相の特異性を明らかにするにつれて、あらゆる事柄が進化の事実をさししめすようになった。 こうした状況の中で、進化論的な発想の先駆けとなるものが、いくつかあらわれた。たとえば、ジョフロア・サンティレールやリチャード・オーエンが提唱した動物の器官の相似や相同という概念は、共通のプランからの進化を前提としていたし、フォン・ベアは、ヘッケルに先だって高等動物の初期胚が下等動物の成体に似ていることを指摘していた。また、反進化論者として有名なキュビエも、神による創造という枠内で、天変地異による新種の出現をみとめていた。そのほか、モーペルテュイやビュフォンも進化論的な考え方を公然と表明していた。 ダーウィン以前の体系的な進化論者として特筆すべきは、エラズマス・ダーウィンとラマルクである。エラズマスは、チャールズの祖父で、著書「ズーノミア」(1794~96)において、フィラメント状の原始生物からすべての動物が進化したことを明確にのべたが、進化の要因を環境の変化に対する動物の反応にもとめていた。ラマルクの進化論は、著書「動物哲学」(1809)にのべられていて、それによれば、生命は常に自然発生しており、その内在的な能力によってしだいに成長・複雑化していくという。さらに、環境への適応としてつかわれる器官が、獲得形質の遺伝を通じて発達することによって、生物の多様性がますと考えた。後世、この後者の点のみが強調されることになり、ラマルク説=獲得形質の遺伝とみなされるようになった。
進化を裏づける証拠が蓄積されていったにもかかわらず、進化論はなかなか受容されることがなかった。その背景のひとつとして、すべてを神の創造に帰すキリスト教的な世界観、多様な生物の世界を静的な存在の連鎖とみなす中世的な世界観があった。また逆に、進化論が社会的に受容されるようになった背景には、産業資本主義の発展、自由競争による社会の進歩という時代精神があったことは事実である。しかし、ダーウィンの進化論(厳密には、アルフレッド・ラッセル・ウォーレスが同時発見者である)がそれ以前の進化論と一線を画し、最終的に社会にみとめられ、現代生物学の基盤となった最大の理由は、科学的な進化のメカニズムをはじめて提出したところにある。 有名な「種の起原」(1859)で、ダーウィンがのべている自然選択(自然淘汰)説の原理を要約すると次のようになる。あらゆる生物は、生存できる以上の子供をうむので、それらの子供どうしで必然的に生存競争が生じる。一方、子供の間には個体ごとに変異があるため、生存競争においては、より適応した性質をもつ個体が生きのこる。この過程の集積によって変種が生じ、変種が新しい種の発端になるというのである。ダーウィンの時代には、遺伝の法則はまだ発見されておらず、変異の原因も不明ではあったが、自然選択説は、生存競争と変異の組み合わせによって、神が介在しなくとも、種が自動的に進化するメカニズムを提示したのである。 ダーウィンの進化論は、社会進化論(→ 社会ダーウィニズム)や優生学といった形で、生物学以外の世界にも多大の影響をあたえた。また、生物学の歴史においても、人間をふくめてすべての生物を神秘の座から科学の対象にひきおろし、すべての生物現象を進化的適応という観点からみることを要請した点において、決定的な重要性をもっていた。
進化論そのものは、「種の起原」が出版されてから10年ほどで学界に広くうけいれられたが、自然選択説に対してはさまざまな異論が出された。19世紀末には、獲得形質の遺伝を強調するネオ・ラマルキズムや定向進化説が、アメリカの古生物学者コープやオズボーンなどによって主張され、多くの支持をえた。定向進化説は、化石の記録にもとづいて進化に方向性があるとするもので、その原因を生物の内在的な力にもとめた。オオツノジカの巨大な角、剣歯虎の長くのびすぎた犬歯は、定向進化の好例とされ、このような過度の発達は、自然選択説では説明できないとした。 また逆に、1900年におけるメンデルの法則の再発見者のひとりであるド・フリースは、突然変異こそが新しい種が生まれる原因であると主張する理論を1901年に発表した。それによって、軽微な連続的変異の集積が進化の要因であるとするダーウィンの自然選択説に異をとなえ、多くの支持者をえた。こうして、1910年代には、進化の説明理論としての自然選択説は、存続の危機に直面していた。 この危機を打開したのが、生物測定学(生物統計学:→ 遺伝)派に起源を発する集団遺伝学(→ 進化)の発展であった。アメリカのS.ライト、イギリスのR.A.フィッシャー、J.B.S.ホールデーンらによって、体系をととのえられた集団遺伝学は、集団の遺伝子構成(遺伝子頻度:→ ハーディー=ワインベルクの法則)を統計的に処理することによって、生物の形質には多数の遺伝子が関与しており、メンデル遺伝学の突然変異と連続的な変異が矛盾なく両立できることをしめした。これに、種分化(→ 種)における隔離の重要性を指摘したT.ドブジャンスキーやE.マイヤ、そして定向進化説を実証的に否定した古生物学者G.G.シンプソンらがくわわって、1930~40年代に、進化の総合説(総合学説)が確立される。 総合説は、ネオ・ダーウィン主義とよばれることもあるように、ダーウィンの自然選択説を、現代的な科学知識の上に再構築したもので、現在における正統派進化論として大多数の生物学者によってみとめられている。総合説によれば、進化は、集団の遺伝子構成の変化として理解される。つまり、突然変異や交配の際の遺伝的組み換えによって生じた遺伝的変異の集団内における頻度が、遺伝的浮動(→進化の「種分化」)によって非適応的に変動したり、あるいは自然選択の作用によって適応的に変動したりする。そして、それが、地理的な隔離をうけることによって、ことなった遺伝子構成をもつ変種集団になり、やがて別の種となると考えるのである。 総合説とダーウィンの自然選択説のもっとも大きな相違点は、ダーウィンの場合には自然選択の単位が個体であり、生存競争を通じて適応的な個体が生きのこることによって進化がおこると考えるのに対して、総合説では、自然選択の単位は遺伝子であり、適応的な遺伝子が集団中にふえることによって進化がおこると考えるところにある。ドーキンスの利己的遺伝子説は、このことを比喩的に強調したものである。
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