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Windows Live® の検索結果 1121~1206 平安末期~鎌倉初期の僧。号は俊乗房、もしくは南無阿弥陀仏。京都の紀氏の出身で、俗名は重定。最初、真言宗の京都醍醐寺に出家し、大峯山にのぼるなど、修験道系の修行をおこなっていたが、阿弥陀仏への信仰を深め、高野聖(→ 聖)の一員となる。 1167年(仁安2)中国の宋にわたり、栄西とともに帰国したともされるが、入宋が事実かどうかはわからない。81年(養和元)に、前年、平重衡(たいらのしげひら)の焼き討ちによって消失した東大寺の再興造営勧進(かんじん:寄付をつのること)の宣旨(せんじ:天皇の命令をつたえる文書)をうける。 以降、東大寺再興に力をつくし、各地を勧進してまわる。1185年(文治元)には、宋の工人・陳和卿(ちんなけい)の手による大仏の鋳造が成功し、後白河法皇(後白河天皇)を導師として開眼供養(→ 供養)がおこなわれた。さらに95年(建久6)には、大仏殿や中門の造営がおわり、後鳥羽天皇や源頼朝が臨席して落慶法要がいとなまれた。 重源は、東大寺再建にあたって、宋から大仏様とよばれる建築様式をとりいれた。それらの建築物の多くは後に焼失してしまったが、その様式は今も南大門にみることができる。また、勧進や造営の活動について重源自身が記録した「南無阿弥陀仏作善集」ものこされている。
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