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アメリカが2003年3月20日(イラク現地時間、アメリカ東部時間では3月19日)、大量破壊兵器開発疑惑やイラク国民の解放などを理由に、イギリスなどと協力してイラクのフセイン政権を先制攻撃した戦争。国連安全保障理事会(安保理)の明確な武力行使容認決議がないままの開戦だったが、連合軍は約1カ月でイラク全土をほぼ制圧、5月1日にアメリカのブッシュ大統領は「主要な戦闘作戦は終了した」と宣言した。 フセイン政権は崩壊し、2003年12月にはフセインも米軍に拘束されたが、その後もブッシュ大統領は正式な終戦宣言を出していない。はげしい反米テロや宗派間の紛争がつづく中で、05年に憲法制定と国民議会選挙があり、06年5月には正式な政府も発足した。しかし、治安の回復はみられず、テロによる米兵の死者はふえつづけ、イラク市民の犠牲者も主要な戦闘作戦終了宣言前の犠牲者をはるかにうわまわった。 この戦争は、アメリカのブッシュ大統領が2002年9月に発表した包括的な対外政策文書「アメリカの国家安全保障戦略」(→ ブッシュ・ドクトリン)で明らかにした「先制攻撃戦略」にもとづいて実行したはじめての戦争だった。しかし、第2次世界大戦以降つづいてきた国際連合(国連)の枠組みによる国際的秩序に正面から挑戦した点で「国際法違反」との声も強く、フランス、ドイツ、ロシア、中国をはじめ、多くの国が反対の意思を表明、02年秋から03年にかけて、世界各国で反戦デモがくりひろげられた。
イラク戦争は、1990年8月にイラクがクウェートを侵略、占領したことでおきた湾岸戦争の延長上にあった。このイラクのクウェート侵略に対して、90年8月、国連安全保障理事会(安保理)はイラクへの経済制裁や無条件撤退をもとめる決議を採択。さらに同年11月の決議で、イラクが撤退しない場合「必要なあらゆる手段」の行使を国際社会にみとめ、アメリカを中心にした多国籍軍は91年1~2月に、イラクをクウェートから追放した。 クウェート解放をうけ国際連合(国連)は、安保理決議686(1991年3月)と687(同4月)で、イラクに対し、クウェートへの賠償金の支払いおよび大量破壊兵器と長距離ミサイルの廃棄を義務づけた。同時に決議687は、生物化学兵器の除去を確認する監視機関として国連大量破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM)を設置すること、また核兵器計画の除去の確認を国際原子力機関(IAEA)に義務づけた。イラクは4月にこれを受諾した。 一方、アメリカは、戦争直後の1991年4月以降、一方的に飛行禁止区域を設定して監視飛行をおこない、それへの違反を理由に爆撃を継続した。93年には、核開発計画の疑い(1月)、ブッシュ大統領の暗殺を企画(6月)などを理由に、バグダッドの工場や政府機関本部などをミサイル攻撃した。 1995年4月、国連は同年3月にイラクが国連大量破壊兵器廃棄特別委員会に対して生物化学兵器に関する情報を開示したことをうけて、安保理決議986を採択、イラクが一定額の石油を売却して賠償と民生のための人道援助物資の購入にあてることをみとめた。イラクは96年5月、この石油・食料交換プログラムに同意、5~6月に国連大量破壊兵器廃棄特別委員会監視下でバグダッドの主力生物兵器工場の解体もおこなわれた。国連の「食料のための石油」計画は同年12月に開始された。 しかし、1998年10月、安保理が「査察で兵器が廃棄されても経済制裁の解除は約束できない」としたことから、イラクは同月、国連大量破壊兵器廃棄特別委員会への協力を拒否。11月には受け入れを表明したが、アメリカ、イギリス軍は査察妨害を理由に、12月「砂漠の狐(きつね)作戦」と名づけた巡航ミサイルや爆撃機による攻撃をおこなった。 この段階までに、イラクの生物化学兵器や長距離ミサイル、またそれを製造していた工場と設備の90~95%が検証可能な形で廃棄された、ともいわれる。しかし、大量破壊兵器をなお隠しもっている可能性があるとする主張もあったため、国連は1999年12月、安保理決議1284で国連大量破壊兵器廃棄特別委員会にかわる組織として国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)を設置したが、イラクとの間で査察方法などがまとまらなかった。 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロとアフガニスタン攻撃、また02年1月のブッシュ大統領による「悪の枢軸」演説など情勢の変化をうけて、イラクは02年9月、大統領関連施設をのぞく査察の無条件受け入れを表明。同年11月国連は、イラクに最後の機会をあたえるとして、大統領関連施設をふくむあらゆる施設への無条件・無制限の立ち入りなどをきめた安保理決議1441を採択、イラクも受諾し査察が再開された。 イラクは2002年12月に大量破壊兵器の製造・保有を否定する膨大な報告書を提出、一方、国連監視検証査察委員会と国際原子力機関からなる査察団は、03年1月から3度にわたって安保理に査察結果を報告した。報告はイラクの査察協力が向上してきたこと、明確な違反事実はみつかっていないとしながら、いっそうの査察の継続をもとめた。 しかしアメリカは、これまで数々の国連決議にイラクは違反し、大量破壊兵器をかくしていることは明白だとして、イラク周辺に軍を配備しはじめた。これに対し、世界各国で反戦運動が高まり、2003年2月のデモには、世界60カ国、400都市で1000万人をこえる人が参加した。国連ではドイツ、フランス、ロシア、中国などが査察継続をもとめる努力をしたが、アメリカは反対多数を見こして、安保理決議はもとめないまま開戦にふみきった。 2004年5月、アメリカのブッシュ大統領はイラク戦争での主要な戦闘作戦終了宣言をおこなった。しかし、アメリカが開戦の大きな理由とした大量破壊兵器の製造・保有疑惑は、アメリカみずからがイラクに派遣した調査団によって否定される。調査団が大量破壊兵器の捜索をおこなった結果、同年10月に「イラクに大量破壊兵器は存在しない」との最終報告を提出したのである。 2006年9月には上院情報特別委員会が、開戦前にブッシュ政権が指摘した、フセイン政権と国際的テロ組織アルカーイダの協力関係を否定する報告書を提出。この報告書では、イラクの大量破壊兵器開発疑惑についても、当時のパウエル国務長官が国連安保理で説明した移動式生物兵器製造施設があったとの機密情報の信頼性を全面否定した。こうしたことが次々に明らかになると、ブッシュ政権が開戦にあたって、イラクの脅威をことさら強調する情報操作をしていたとの疑いも出てきた。ブッシュ政権は、フセイン政権が大量破壊兵器を隠しもっていたから開戦したのではなく、無条件査察を拒否したのが大きな理由であるとしたが、開戦前に国民や世界にむかって主張していた説明がくつがえされたことで、イラク戦争の「大義」は大きくそこなわれた。
2003年3月20日、アメリカ軍とイギリス軍が、バグダッドへの爆撃を開始した。ブッシュ大統領は「イラクを武装解除して国民を解放し、世界を大きな危険からまもるため」などと演説、フセイン大統領も「徹底抗戦」をよびかけた。 アメリカ・イギリス両軍は、爆撃と並行してクウェートからイラクに侵攻、3月29日ナーシリーヤ、4月2日クート、4月3日ナジャフ、4月7日バスラ、カルバラーなどイラク南・中部の町を次々と制圧。アメリカ軍は、4月9日にはバグダッドに侵攻して大統領宮殿を占拠、街の中心にあったフセイン像をひきたおした。圧倒的な戦力による侵攻に対し、イラク軍による生物化学兵器の使用はなく、市街戦による大きな抵抗もなかった。 一方、クルド人部隊と呼応するかたちで北部からも部隊が入り、4月10日キルクーク、11日モスルなどを制圧。14日にはバグダッドからの部隊がフセインの生地であるティクリートも制圧、アメリカ・イギリス両軍がほぼ全土を掌握した。 アメリカはただちに国防総省のイラク復興人道支援室(ORHA:オーハ)による暫定統治をはじめ、ブッシュ大統領は、5月1日(アメリカ東部時間、日本時間では2日)、サンディエゴ沖太平洋上の空母エイブラハム・リンカーン艦上で演説、主要な戦闘作戦終了宣言をした。
もともとフセインとアメリカは良好な関係にあった。1979年2月のイラン革命後の7月、バース党のバクル大統領の後をうけて大統領となったフセインは、イランに敵対するアメリカの後押しをうけて、80年9月にイランに侵攻した。→ イラン・イラク戦争 8年間にわたったこの戦争を通じて、アメリカのレーガン政権は、イラクへの軍事的支援を拡大した。とくに現国防長官のラムズフェルドは、1983年12月に、レーガン大統領の特使としてバグダッドを訪問してフセイン大統領と会談。アメリカはこれを契機に、イランの軍備展開についての衛星情報をイラクに提供したほか、軍事要員による前線での戦術指導などに力をつくした、とされる。 この間フセインは、政治的対立者の排除、また相互監視システムを浸透させるなどして独裁体制をつくりあげていった。1988年のイラン・イラク戦争の終結直前には、イラン軍が占領したイラク北部ハラブジャに毒ガス攻撃をしかけ、多くのクルド系住民の命をうばった。 フセインは石油基地の拡大と湾岸地域での覇権をねらって1990年8月にクウェートに侵攻、アメリカとの蜜月(みつげつ)時代はおわった。アメリカはイラクの軍事大国化を警戒、また有数の石油埋蔵量をほこるイラクを影響下におきたいと考えたが、湾岸戦争ではイラク軍をクウェートからおいだすにとどめ、バグダッド侵攻はとりやめた。フセインは湾岸戦争後に武装蜂起(ほうき)したクルド人やシーア派住民に対しても大弾圧でのぞんだ。 1990年代、アメリカは前述したように部分的なイラク攻撃をつづけ、一方のフセインは国内体制のひきしめをはかった。アメリカがイラク攻撃を明確な目標にさだめたのは、2001年の同時多発テロによってであった。同事件後、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官、ウォルフウィッツ国防副長官、ライス大統領補佐官など政権内のネオ・コンサバティブ(新保守主義)グループの発言力が高まり、対テロ戦争を最大の課題にかかげた新国家戦略が採用されるにおよんで、イラク戦争へと突入したのである。
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